「貧清思想」のここちよさ

「貧清思想」には独特のここちよさがある。プロテスタンティズム、わびさび、さまざまな原理主義から、過剰な健康管理、ダイエットまで、自分を清く正しい姿に変えようとする過程には陶酔感さえ感じるものだ。僕は、日本社会全体が、そのような貧清思想に浸っているような気がしている。例えば「無印良品」を高額所得者が受け入れる心理には、彼らの貧清思想が、「個性」「欲望」「色香」といったイメージを消去し、必要最小限の機能と、極力加工を控えた、無垢の素材感を前面に出すという「無印良品」の戦略に、ぴったりとはまるのだ。
 貧清思想は上流階級に限られたことではなく、様々な階層にも及ぶ。例えば、女性の化粧は、80年代あたりから、全ての階層を通じて、ピュアで自然な「薄化粧」に変化した。以前、大手化粧品会社のブースデザインを担当したことがあるが、その時伝えられた化粧品会社の商品コンセプトは、「ピュア、クリア、シンプル」だった。これは、デパートの化粧品売場を見れば解るが、ほとんどの化粧品メーカーに共通する。それらのブースデザインは、クリアでシンプルな透明素材と、光を使ったもので、そこからは本来、差異を表現するはずの商品でありながら、「個性」「欲望」「色香」といったイメージが消去されているのだ。
 このことは、次回「わいがや2」でテーマとなる「ファスト風土」化する風景とは矛盾しない。それは我々の心理の中に、本来の思想としてのピュアリズムと、それを曲解した、あるいは言い訳とした、脱ステイタス意識が同居しているのだ。「ステイタス」とは煩わしいものであるというのが、日本人の共通認識なのではないか。多くの日本の上流階級の心理としては、収入さえあれば、「権威」は必要なく、そしてそのような成り上がり意識は、実は、「貧清思想」によって癒されているのだ。
 三浦展がどのように考えているか知らないが、上中流階級の「下流」化現象という、「欲望」の減退問題には、もともとの日本人の、競争原理を極力避けようとする心理が働いていると思う。上流を形成している人達が、自信を持ってセレブな生活を満喫できないのは、実力ではなく年功序列で偉くなってしまったという後ろめたさや、成功者が必ずしも偉いわけではないという村落共同体的平等意識などから抜け出すことができないからなのではないか。

下流社会」という問題提起に対しては、問題提起そのものが問題というレベルに収斂されてしまうことが多いと思う。それは自らを「下流」と称するところからすでに始まってしまうのだが、この問題は、どうしても第三者的な、俯瞰的な立場に立って議論しなければ見えてこないことで、あえて偉そうな立場に立って物を言うパワーがないと問題として成立しない。しかし「貧清」な我々には、実はこれが一番難しいのかもしれない。

 @例によって、はなしは飛躍してしまうが、90年代突然バブルが弾けてしまったのは、経済学的、政治的要因ではなく、上記のようなことが、80年代バブルの過程で、日本人の意識の上に突然「顕在化」してしまったからだと思っている。なぜか突然、物質的豊かさに後ろめたさと煩わしさを感じ、我々は消費そのものが出来なくなってしまったのだ。--M