「シンプルライフ」の裏側

前回の続きから。 
フロイトが云うところの「深層心理」は、相対的に、表面に対して少し深いところにあるというだけであって、別に未知の領域というわけではない。 それに対してユングの考える深層は、根源的な人類の起源にまで遡ることができる(かもしれない)未知の領域として捉えられる。
ユングのクライアントの見た夢が、どこかの未開地の土人の何かとそっくりだったそうだが、少なくとも、前回のブログでとりあげた、バハマへ旅立った老人も、生きたいという意志を示した、植物人間の患者も、その深層心理は未知の領域のものではなかった。 クライアント個人の欲望がそのまま夢となって現われただけであって、フロイトが考えるように、人間は全て後天的に造られるのであって、先天的に、何かロマンティックなものを秘めているわけではない。

 内省的に自分自身の中にどんどん入っていって、「純粋」な自己の魂を発見したとき、民族でも血族でもいいのだが、そこに共通の仲間が立ち現れてくるのではないか、という願望は、当然科学的な根拠はなく、どちらかというと、政治的、イデオロギー的な理由から現われると考えた方がいい。
 そこで問題なのは、いまの社会の言説空間が右に寄っているといったようなことよりも、あまり目立たない場所に、例えばデザインやファッションの中や、生活習慣の中に、そのようなイデオロギーがいつのまにか入り込んでいることだ。 外見よりも内面を偏重するという社会心理は、ピュアリズム(禁欲思想)という形態を採る。バブル後半、町から、「色」と「形」、そして消費という「欲望」が消えたのはそのためだ。

 ─「ピュアでクリアでシンプルなデザイン」 ─これは、僕が担当したある化粧品メーカーのブースデザインの基本コンセプトだが、これはこのメーカーに限らず、ほとんどの化粧品メーカーのブースがそのようなイメージでデザインされている。 「人の数だけ美しさがある」 というコピーが流行したのは20年ほどまえのことだが、動物であれば飾り立てて性欲を煽ることにも等しい「化粧」という行為(欲望)が、本来の「美」は表面にではなく、根源的なところにこそあるというイデオロギーに負けている。つまり求めるものが、個性から、共通感覚へとシフトしたのだ。 じつは社会に活力が無くなる時期よりも少し前から、日本の社会心理には内面を偏重したピュアリズムが支配しはじめていたのだ。


シンプルライフ」、「ピュアな生活スタイル」といった感覚を、進化したポストモダンとか、日本のかつてのわびさびに通じる大人の発想、などと捉えることは、楽観的に過ぎると思う。 もうひとつ底の深層を探るべきで、それは、個性とはほど遠いユング的な、願望(ロマンティシズム)としての共通感覚を求めているといえないこともないのだ。 「時代の気分」というタイトルで以前いくつかブログに書いたが、今の社会の保守化したいという気分が、メディアの中に露出しているだけでなく、町の風景、生活スタイルの中にも深く浸透しているような気がする。【M】