「死刑」と日本人ー3

ccg2010-12-07

また今日も、正義感の強い市民達によって、「死刑」が宣告されてしまいました。これで3例めですね。再掲載になりますが、70パーセントの人が死刑存続を求める中、死刑廃止を実現させた仏法務大臣、バダンテールによる死刑廃止法案審議時の演説の一部を紹介します。

─「司法の現実の中では、死刑とは何でしょうか。12人の男女の陪審員。2日間の審問。事件にまつわることがらの奥底まで触れることは不可能。そして、数十分、時には数分で罪悪性についての非常にむずかしい問題に断定的に判断をくだす。それ以上に、ほかの人の生死を決定するという恐ろしい権利もしくは義務。12人の人が、ある民主主義国で、次のようなことを言う権利があるというわけです。「こいつは生きていてよい、こいつは死ななければならない!」と。私ははっきり申します。この司法の構想は、自由の国のそれではありえません。まさに、そこに含まれる全体主義的な意味のゆえにそう言えるのです。」─

ある哲学者の言ですが、刑罰の極として「死刑」があるのではなく、あるのは、「刑罰」か「死」かです。これまで何度も触れてきましたが、人間が判断しても許されるのは、「刑罰」までであって、「死」はまた別の領域の問題だと思います。

 バダンテールのいう、全体主義的の意味は、自由な「個」を離れて、「全体」をイメージした時、踏み込んではならない領域に踏み込むことが許されるような、錯覚に陥る危険性があるということです。つまり、「世界に冠たるニッポン民族!」的なロマンティシズムに溺れ、己を過大評価してしまうようなことです。(国民こぞって「死」を要求するニホンは、現在、全体主義に近い、奇妙な共同幻想の中にあると考えられます)

 人が、「人の死」を取り扱うことは、永遠に棚上げするべきだと思います。「バベルの塔は天を目指し、神の領域に近づきすぎたが故に崩壊した」、などというのは大袈裟かもしれませんが、われわれは、どんな凶悪犯に対してであっても、生涯拘束し罰を与えることまでに留めるべきだと思います。「死」とは何なのか、誰にも解らないのです。

 「バベルの塔」の話しはもちろん神話ですが、神話というのは、もともと生活の知恵として語り継がれてきたものです。近代人のわれわれが思っているより遥かに、節度(リスクマネジメント)を持つことは重要なのではないかと思います。
 余談ですが、9:11テロとバベルの塔神話とは奇妙に一致する部分がありますね。(M)