前回投稿の補足

─例えば、90年代、日本の現代美術に現れたムーブメントから。


 90年代、日本の現代美術に現れたムーブメントが、それ以前の美術とどこが違うかというと、単純にいえば、それまでの美術表現が「外」に向いていたのに対して、 90年代の美術は、「内」に向いたものに変化したことだ。 それはどういうことかというと、作家自身が「何」を表現できるかという問題から、表現しようとする自分とは「何」か? を問うようになったということだ。
 特徴的なのは、表現手段が、立体的なものから、平面的なものへ、要するに「絵画」が主流になったことと、明確な「色」「形」が後退したこと、またそこから受けるイメージが動的なものから静的なものへと変化したことがあげられる。 この変化(内省化)は、 単に、趣味が変化し派手なものが好まれなくなったということではなく、日本社会が高度成長からバブルを経ることで出来上がった、「個性」イコール「主体性」という独特なスタイル(物語)が、維持できなくなったということを意味している。 つまり、個性を追求することだけでは、自我を維持できなくなったということだ。 アーティストが、表現しようとする自分とは「何」 かと問うことは、過去を振り返ってもう一度自分を見つめ直すという行為であり、自分の存在理由をもう一度組み立て直さなければならない事態に陥ったということだ。そしてそのことは、日本全体の社会心理とパラレルであることは言うまでもない。

 注意したいのは、これが、バブルの崩壊と同時に始まったことではなく、バブルを崩壊させる主な原因になったということだ。 つまり、社会に活力が無くなったから、思考が内省化したのではなくて、思考が内省化を迫られたから、バブルが崩壊したのであって、その理由は、社会心理的な意味で、「個性(日本では主体性)」を担保するはずの─差異─を、消費に求めることの不可能性につきあたってしまったことで、消費ができなくなってしまったからだ。(経済学的にバブル崩壊の理由を明快に説明したものは今も無いと思う)

 そのような社会心理をアーティストが先取りし、それは、前回の投稿で書いたように、町の風景や生活スタイルを、色と形と欲望を払拭したものに変化させたのだ。 しかし、90年代半ばあたりから、自然なもの、素材を生かしたものが好まれるようになった背景には、「自分を見つめ直す」というある種の、ピューリタニズムがあるのだが、それは、人間本来の姿(シンプルライフスローライフ等)に戻りつつあるというよりは、「個」の後退、「共通感覚」への願望、という側面があることも覚えておく必要がある。 
 今の、保守化、右傾化しようとする社会心理の背景には、「個」を維持できなくなってしまったことで、その対価としての「共同幻想」に救いを求めようとする心理が働いていると考えるべきで、要するにこれは、社会心理的な領域での、防衛機制そのものなのだ。【M】

 内藤礼 『地上にもうひとつの場所を』
1997年ベニスビエンナーレに出品された作品で、観る者は、一人だけで10分間、このなかに居続けなければならない。つまり、作品を観るという行為から、自らを見つめると言う行為にシフトさせるための「装置」」としての作品だ。