NHKスペシャル「鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜」

ccg2007-08-13

NHKスペシャル「鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜」 は、何か新しいコンセプトで作られているように感じさせたが、ほぼ毎年この時期に放送される、日本軍を悪役とした「反戦ドラマ」の一環、という範疇を超えるものではなかった。 語り口が斬新なだけで、「こういうことがあった」 という事実が伝えられるだけに留まり、「なぜ、そうなったのか?」 という一番大切な部分が、いつも視えてこない。 

 あの戦争の異常性は、文学やジャーナリズムを通して、わりと戦後の早い時期から報告されているのだが、日本人は、ずっと、「なぜ?」 という疑問から逃げてきた。 最近では硫黄島の玉砕物語もそうだったが、いつも、その背景から背を向けて、ヒーロー物語に横滑りしてしまうのだ。 ただ、なぜ逃げるのかという理由はわりとはっきりしている。 それは、一般論的に言えば、敗戦がトラウマとなっているからだ。 しかし、もう60年以上も逃げ続けていることを考えると、よほど強烈なトラウマとなっているのだろうが、それは、「鬼太郎が見た玉砕」 から伝わってくるような、─事実─に対してではない。 つまり悲惨な戦争を戦って敗れたことがトラウマとなっているのではないし、酷い政権に加担してしまったという後悔に対してでもない。 日本人の抱えている最大のトラウマは、 あの戦争の経験から、深層心理では─「自分達も、あような日本人の遺伝子を受け継いでいることを知っている」─ ところからくるものだ。  (ちなみにドイツの戦後思想は、逆に、その問題つまりナチの問題をドイツ人の精神の問題として、表面化させるところからスタートした)

 要するに、われわれ日本民族は、ドラマのなかに出てくるような、単なる美意識から玉砕を強要する将校達の感性が、じつはよく理解できるのだ。 よく理解できてしまうのだが、それは間違っているのだ、というモダニティーと激しく矛盾するために、日本人全体が、激しい 「ダブルバインド」 状態にあるのだ。 われわれは、どちらに組することもできず、ただこの問題に触れずにいるしかない。 
 しかし重要なことは、あの時、玉砕を強要された兵士達も、玉砕の命令を下した将校や参謀達の感性をよく理解していたはずだということだ。 集団自決の強要についても言えることだが、われわれが恐怖(トラウマ) するものは、「そのような事実があった」 ということではなく、「そのような状況になれば、同じようなことを繰り返すのだろう」 という、自分自身の精神のなかに存在する、恐ろしい─プレモダンな感性─に対してであると考えるべきだ。【M】