▼安倍さんが辞めない本当の理由

 スタンレー・キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』 で、一番記憶に残っているシーンは、少年達が、「雨に唄えば」を口ずさみながら、浮浪者風の男に暴行を加える場面だ。 この映画は1971年封切りだから36年前に作られた、近未来映画ということになるが、日本では、横浜の繁華街で少年達が浮浪者に集団暴行した事件がほぼ25年前に起こっている。 ほぼ10年の時差で、『時計仕掛けのオレンジ』は現実となったわけだが、 共通しているところは、映画では少年が白装束だったことと、横浜の少年達の、「横浜を綺麗にしてやっただけだ」 という供述とがイメージ的に重なることだ。 
 その後、同様の事件が繰り返されるが、25年前の横浜の事件と違うところは、例えばこのあいだ、赤羽の公園で寝ていた浮浪者風の男を、少年達が焼き殺そうとした事件があったが、それが社会問題としてほとんど取り上げられなくなっていることだ。 このことは、普通に考えれば、社会が野蛮になったとか、少年法の問題ということになってしまうが、もっと本質的な問題が裏側にあると思う。

 『時計仕掛けのオレンジ』 や、横浜の少年達が、「汚い物」 を排除できたのは、彼らの観ていた世界が、彼らの頭の中だけでイメージされた世界だからだ。 つまり、「他」の世界も共存していることをイメージできず、 自分だけの世界に、穢れたものの存在を認めることができなかったのだ。 そして世間の側はその時、そのような感性を持った若者 の存在に驚愕し、彼らの中に、自分とは異質の「他者」を感じずにはいられなかった。 しかし、その後、そのような他者性は、確実に社会の中に「内面化」 されてしまった。 我々は、その時イメージできなかったことが、今では、自らの感性の一部として取り込まれているのだ。 ニュース性に乏しいとされるのはそのためで、我々にとっては、すでに驚きではなく、「在り得ること」 なのだ。
 
 しかし、この「差」は物凄く大きい。 なぜなら我々は気づかないうちに、かつて、『時計仕掛けのオレンジ』 に出現した、「他者」(少年)の側に立ってしまっているからだ。 具体例を上げれば、前回の投稿で、─「安倍さんは、国民を見ていないのではなく、見られているという感性が無いのだ」─と書いたが、つまり安倍さんの観ている世界は、明らかに、自分の頭の中だけでイメージされた世界に留まり、「他」の世界があることを認めていない。 だから、彼が辞任しないのは、政治的な問題でも、彼個人のキャラクターの問題でもなく、自閉的に、自分が正しいと信じているからだ。 そして安倍さんの中にある、─「美しい国」─はそのようにイメージされた、個人的なユートピアであると考えなければならないだろう。
 
 他者性が内面化、つまり自閉してしまった社会は、客観性(座標軸)を失った社会であることを前提としなければならず、何を「善」とし、何を「悪」とするかの判断が、ほんとうに難しい。何故社会が自閉してしまったかということが重要な問題だが、それについての考えは次回。【M】