「他者」不在の内閣 赤城さんの立場

ccg2007-08-02

 このブログでも何度も取り上げたが、現職大臣の松岡さんが、パジャマのままで死んでしまった、というか死んで「しまえた」理由が、今でも分からない。そしてその謎は、なぜか自分の中では、「安倍ちゃんは、なぜ、赤城さんを松岡さんの後任にできたのか?」 という疑問と重なってしまう。 
 現職大臣の自殺騒動で崩壊寸前状態の内閣で、しかも参議院選も近いあの時、松岡さんの後任には、嘘でもいいから実績と、ビジュアルに秀でた、大臣─らしい─人を選ぶのが普通なのではないかと思うのだ。 しかし、全く繋がりのなさそうに見える、「パジャマで死ねた松岡さん」と「赤城さんを選べた安倍ちゃん」の感性の間には、一つの共通点があるように思える。それは、─他者─の、あるいは外部視線の不在だ。


 安倍ちゃんの内閣は、安倍ちゃんより立派そうな人やかっこいい人は入れないとか、お友達内閣とか言われるが、それが出来てしまう感性には、根本的に、─外部視線─が欠落している。 安倍総理は国民の方を見ていないとよく言われるが実はそうではなくて、安倍ちゃんは、国民を見ていないのではなく、国民から─視られている─という感性が欠落しているのだ。 つまり安倍さんの中には、他者がいないのだ。 安倍さんが早口で語る教科書のような抑揚のない答弁の言葉は、外に向けて発せられるのではなく、単に自分の頭の中で渦巻いているに過ぎない。
 (松岡さんも、その死に際しては、死後の風評や、見苦しい姿をさらすことに対しては鈍感だった。そこにも外部視線は不在だ。)


「いい政治とは何か?」という問いに一言で答えることは難しいが、例えば、「自閉」しないこと、というのはあたりまえだが重要な要件だと思う。 戦時内閣とまで言ってしまえば極端かもしれないが、為政者が自閉し、自己から出られなければ、当然バランスを崩すし、優先順位も見誤る。 例えば、教育基本法憲法の問題は、民度(嫌な言葉だが)の高い時にやるべきで、民度を上げるためにやるべきではないし、このことは例えば、初代防衛大臣小池百合子を選んでしまう驚くべき「バランス感覚」を考慮に入れたとき、安倍という男が祭り上げられてしまう現状に対して、多くの人は、背筋の寒くなる思いを感じるのではないか。 安倍さんにとっては「国防問題」でさえ、バーチャル空間の物語なのだ。【M】