▼等身大の─[政治]と[行政]

 [政治]─安部晋三内閣の、最大のサプライズは、なんといっても、現役大臣松岡さんの自殺ではなく、「赤城農林水産大臣」の任命だろう。ちょっときのどくだが、ただでさえ「え!」、と思ってしまうほど貧相な男が、頬とおでこに絆創膏をつけて、ネクタイも禁止された似合わないジャケット姿で、マスコミの前に姿を現したとき、「うわ〜!」と思った人は少なくはないだろう。
 この時、誰もが感じた絶望感が、自民党大敗の一因になっただろうことは充分考えられるが、その絶望感の多くの部分は、赤城さん個人に対してではなく、「安倍さん!あんた総理大臣なのにほんっとのバカじゃないの?」 という絶望感だったはずだ。 だれが考えたって、松岡大臣自殺事件の後任人事に、しかも厳しい戦いが強いられそうな参議院選の直前に、明らかにお金を出してくれそうな、大地主のお坊ちゃんで、大臣としての力や風格から遠くかけ離れた、実利(安倍にとって)だけしかない(なさそう)な男を大臣に据えてしまうような政治センスの無さ! しかも、いろいろ失敗を繰り返してきた安倍ちゃんだが、この失態は、ただの失態ではなく、かろうじて残っていた政治への幻想を完全に霧散されてしまった、歴史的失態だった。 日本から、本来的な意味での [政治] という物語を完全に消してしまったのだ。

 
 [行政]─今日で、流れるプールの吸水口に幼い女の子が吸い込まれて亡くなるという痛ましい事故からちょうど一年になる。朝のニュースでその後の公共プールでどのような安全対策が採られているかをレポートしていた。 「あーやっぱりか」、と思ったのは、行政による過度の、というか責任逃れのための安全対策強化だ。 行政の一人の担当者があたりまえにあたりまえの仕事をしていれば済むものを、例えばある市町村では、吸水口のカバーを二重にさせた上に救命士の資格を持った監視員が毎日どころか一時間に一度潜ってチェックをさせる。また、ある小学校では、資格を持った監視員を雇う事が出来ず、通年なら毎日泳ぐ事ができた学校のプールがほとんど閉鎖状態になってしまっている。 
 これでは、悲惨な事故の教訓が生かされるどころか、被害が拡大してしまっている。 普通の感性の持ち主が、普通に管理していれば何の問題も起こらないはずのプールに、過度の管理義務を課すという感覚は、全く日本的なものだ。


 あきれるほどの杜撰さと過度の引き締めとの間が極端に大きい日本人の感性には、一定の「基準値」が存在しない。 価値観が常に等身大なのだ。このブログにずっと書いてきたことだが、我々の精神の中に、座標軸がないのだ。 つまり他者的な客観視線の不在だ。 そして判断基準が、いつも「不確かな」個人の感性に拠るしかない民族は、社会が悪くなれば、それと正比例するように民度は低下するしかない。自らを支えきれないのだ。
 しかしこれはある意味しかたがない。われわれに、主体性が無いのではないのだ。主体性を担保してくれる「何か」が無くなってしまったのだ。【M】