オーム事件と沖縄の「奇祭」

ccg2007-07-26

前回の続きとして、組織犯罪とその構成員の責任について。
 例が少し極端かもしれないが、9.11テロより前、アメリカは、クリントン大統領の時代に、ヴィン・ラディンが使っていると思われた携帯電話の電磁波を探知して、そこにミサイルを撃ち込んだ。この無差別殺人を正当化するのは、組織全体を一つの「個」と見るという考え方で、そこでは構成員の個々の罪の差は考慮されない。 オーム被告の横山真人が、だれも殺していないのに死刑判決がでたことの背景にもこれと同じ考え方が働いている。ここでは、組織と個はイコールだ。
 しかし前回にも書いたように、現代の法律下には、組織そのものを人格化して裁くという概念はない。裁くことが可能なのは、個々の構成員が、何をしたかであって、他の構成員が殺人を犯したからといって、未遂に終わった者が、連帯責任という形で、死刑判決を受けるというのは本来おかしい。

 問題は、このような判決が社会的に自然に受け止められているのはなぜかということだ。「集団で無差別殺人事件を起したのだから、関わった者は皆同罪で、全員死刑になってもしかたがない」と、なぜ思えるのか。 またまた極端な例だが、沖縄のある離島に、「アカマタークロマター」という奇祭がある。これは完全秘密主義の祭りでよそ者には一切見せないのだが、隠れて見ていた人がリンチにあって殺されるという事件があった。だがこの時は、だれが主に殺人を犯したかが判定できないということで、だれも罪には問われなかった。 オーム事件のように、全員死刑という考え方と、このような全員無罪という考え方は、一見正反対のようだが、そこに働く社会心理は、まったく同じ構造だといえる。

 なぜ、一人の殺人も犯していない横山被告に死刑が確定してしまうような、前近代的な感性が、ごく自然に社会にうけいれられるのか。この問題も長くなりそうなので、その心理的背景についてはさらに次回に。【M】


追注 : 沖縄の奇祭の話は、何かの文献資料からの引用ではありません。二十数年前に直接その島の島民から聞いた話です。 しかし、「アカマタークロマター」は、実際に現地でみているので、その人の話には、信憑性があると思っています。 普段温厚な島民が、何かに取り憑かれたような形相になって踊り狂う姿には心底、恐怖を感じました。(絶対に外へ出ないようにと言われて、そっと窓から覗いていただけですが)