■松岡農相は「サムライ」か!?

ccg2007-05-29

戦争責任者達を、ひと括りにして、「英霊」と言うことができる、「代表的日本人」の感性は、石原東京都知事の口を通して、松岡農相を、「サムライ」と言わしめた。 
自殺報道以後、いろんな人がいろんな事をしゃべっていたが、石原の、「彼もサムライだった」発言ほど、日本人の奇妙な感性、というか死生観を表している言葉は少ないだろう。 それは単に、死ねば皆仏、皆英霊、と考えてしまうことが奇妙だというのではなく、日本人にとっては、「死」の問題も、「生」の問題も、他の民族に比べて、相対的に─「軽」い─ということだ。 
 キリスト教社会に比べると、日本は自殺という行為には驚くほど寛容だが、それは、例えば多くの民俗学者が言うように、日本人の感性では、「生(この世)」と「死(あの世)」がそれほど遠い所にあるわけではないことと関係している。 つまり、死ぬことで、絶対的な他者になるわけではないのだ。 もちろんこれは深層心理に属する問題だが、要するに、サムライ発言も、英霊発言も、絶対的他者に対しての敬意なのではなく、いずれもう一度まみえる可能性がある、「相対的他者」に対する、防衛機制的発言の一種なのだ (このあたりの僕の主観的解釈は、保守派歴史学者井沢元彦の著書の影響が大きいが)。 つまり日本人の感性では、死は本当の意味での「死」ではない。

 今朝のニュースで、ニューヨークタイムスが、「責任を取る前に、自ら死んでしまう日本人特有のロマンティシズムだ」 という論説を載せていたと言うが、現職の大臣の自殺などという無責任極まりない行為は、おそらく彼らキリスト教徒には全く理解の範囲を超えることなのだろう。 しかし、「ロマン」という表現は、極めて的を得た表現になっているのと同時に、日本人の人生観が、小事から、国政、さらには戦争にいたるまで、いかに、日本社会が、近代的合理主義を、前近代的ロマン主義が凌駕する社会であったかを表している。
 終戦直後、東条英機近衛文麿はじめ多くの日本の戦争責任者たちが自殺を図ったが、深層心理では松岡大臣の自殺も根底にあるものは同じで、逆に言えば、東条や近衛の自殺も、松岡レベルのチンケなものであり、相対的「あの世」へ逃げるだけという、卑怯極まりないものだったと言えるのだ。【M】