■松岡大臣自殺の「謎」 ─ なんでパジャマなの?

 それにしても、何故、パジャマだったのだろうか?  松岡農相の自殺騒動で、どうしても解らないところはこの一点だ。 故松岡農相はシンゾー同様、闇社会との深い繋がりもあったようなので、複雑な事情が絡み合って死なざるを得ない状況に追い込まれたのだろうが、そのこと自体は、ある意味ありふれたことだ。
 計画性のない突発的な自殺であれば、自分の死んだ姿になど気に留めることはないだろうし、事実、思いあまってのパジャマ姿での自殺はよくあることのようだ。 しかし、故松岡農相は、大臣らしく自殺までの数日間、周到ともいえる準備をしていた。 実家の墓参りも済ませ、後援会への挨拶し、そして当日は、表向きだけでも、6通もの遺書をしたためている。 普通に考えれば、あとは、見苦しい姿をさらすことのないように、公人として自分の身を整えなければならないと思うのではないだろうか(例えば近衛文麿は、白装束だった)。

 いくら近代社会だとはいえ、まったく死後を考えずにいられる人間は、洋の東西を問わずあまりいないと思う。つまり、死ねば総てが「無」と化すと考えることは、意外と難しく、死路の支度とか、死後の風評とかの共同体意識に拘束されてしまうのではないかということだが、彼はそれでも身支度を整えなければならないとは考えなかった。 「そんな余裕は無かった」とか、「死を目前にすれば「達観」した気持ちになるものだ」という意見は違うような気がする。 彼は悲愴感から思いあまって電車に飛び込んだのでもなく、ビルから飛び下りたのでもなく、覚悟を決めて、全ての準備をした上で死んだのだ。そして、にも関わらず、現職大臣松岡利勝は最後の身支度だけは必要とは考えなかったのだ。 それはなぜか?

 今日、ネットを見ていたら、ひとつヒントを見つけた。 村上龍が主催するメルマガで、イギリスの新聞、タイムズの松岡農相の自殺に対してのコメントを紹介したものだが、そのなかで、日本の─「自殺行為は社会への個人的拒否のあらわれというよりも、社会との一体性の表現とみなされることが多い。」─と書かれていた。 
 僕は、これが正解だと思う。つまりパジャマで死ぬことを「辱」と感じなかった松岡さんは、国会議員、大臣という「超」公人でありながら、「公」と「私」が混然と一体化していたのだ。 故人に対して気の毒だとは思うが、表面だけでも超然としていなければならず、モダニストとして国政にあたらなければならないはずの国務大臣が、実は、完全に共同幻想に絡めとられた、か弱いロマンティストだったのだ。 詰まるところ、日本人にとっての自殺とは、絶対的な他者となる覚悟を決めることではなく、胎内へ帰るようなものなのだ。 国務大臣のパジャマ姿での自殺は、今の日本を象徴しているのかもしれない。

 
 そう考えると、前回引用したニューヨークタイムス記事も、タイムスの論評も、的確に日本人の感性を捉えている。【M】