▼自殺者側の倫理─松岡さん自殺事件続考

 前回の書き込みで紹介した、イギリスのタイムズ紙の松岡農相の自殺に対してのコメント。─日本の「自殺行為は社会への個人的拒否のあらわれというよりも、社会との一体性の表現とみなされることが多い。」─


 この、死生観の「差」はどこから来るのだろうか。イギリスでは、自殺することが社会へ拒否であるのに対して、日本では逆に社会と一体化することだというのだ。 確かにキリスト教社会では、自殺に対して厳しい罰則があるのに対して、日本では事故病死や自然死と、自殺での死の差はかなり曖昧なような気がする。 
 例えば、イギリスのテレビドラマに、『修道士カドフェル』 という秀作があるが、それなどを見ていると、それまでどんなに正しく生きてきても、自殺をしてしまったことで、墓地に埋葬もしてもらえないという話があったが、逆に日本の時代劇などでは、心中した二人を手厚く葬ってあげるというシーンがよく見られる。 これなどは、自殺した者でも、共同体から排除することはせず、「あわれ」 な人だったり、逆に「潔い」 人として、内部に留めておこうとする意識があるからだろう。


 しかし問題は、自殺しようとする者の側からしてもそのことは深層心理ではよく分かっていて、死後も、みんなが手を合わせて哀れんでくれることをよく知っているということだ。 松岡さんの場合でも、絶望とか無常感の裏側には、自殺による「死」を覚悟するというよりは、「禊」をするとか、「リセット」するといったような、あるいはもっと変な例えをすれば、「法律で守られた自己破産」をするような感覚があって、自殺したからといって、必ずしも、共同体から排除されてしまう心配がないのだ。 (前回の書き込みで、 ─「詰まるところ、日本人にとっての自殺とは、絶対的な他者となる覚悟を決めることではなく、胎内へ帰るようなものだ。」─ と書いたのは、そのような意味からだ)


 ただ、このような感性はいまさら変えることは無理な話で、しつこいようだが、問題なのは、松岡大臣が、「パジャマ」姿で死んでいたことなのだ。 何故かと言うと、前回少し、敗戦直後、近衛文麿が白装束で自殺していたことに触れたが、「かつては、責任者が責任逃れで自殺する場合でも、それでも「最低限の儀礼」があったんじゃないの?」 と言いたいのだ。つまり、同じ胎内帰りをするにしても、松岡さんは大臣でありながら、あまりにも共同体とズルズルベッタリになっていて、何をしても社会は許してくれるという甘えがあるのだ。
 もちろん近衛文麿にも甘えはあった。 しかしこれが問題なのは、仮に日本社会全体が昔から、「甘えの構造」のなかにあるとしても、この松岡大臣「パジャマ姿自殺事件」によって、少なくとも形だけでも維持しなければならないはず最低限の自立意識や、責任意識さえも、微塵もなくなってしまったということを、社会に露呈してしまったことなのだ。【M】