■コムスン折口雅博は悪人か?

敗戦直後、太宰治がこんなことを言っています。
─「天皇を倫理の儀表としてこれを支持せよ。戀ひしたふ對象もなければ倫理は宙に迷ふおそれあり」─

 それまで大和魂だとか何とか言っていた日本の、戦後手のひらを返すようなアメリカ化に、太宰は危機感を感じたのだと思います。 しかし、ここで重要なのは、太宰は単に、「日本的なものが失われる」、と言っているのではないということです。 失われるものはもっと重要なもの、それは民族の差を超えて人間として普遍的に持っていなければならない、「倫理」です。  
 太宰がさすがだと思うのは、「倫理」は例えば、マルクス主義や、自由主義というようなイデオロギーによっても、担保できるとは考えなかったことです。  「戀ひしたふ對象」、つまり、自らの精神を委ねられる超越的な存在がなければ、人間は 「宙に迷ふ」 弱い存在であることをちゃんと知っていたことです。


 コムスン折口雅博に対しては、 「あのような倫理感のない男に介護をやる資格はない!」と、テレビのコメンテーター達は、叫んでいますが、しかし彼は、倫理の「基準」をどこに求めればいいのでしょう。 これは、「社会人として、自分なりの倫理意識ぐらいは持つべきだ」 といえば済むような単純な問題ではありません。
  問題の根が深いのは、例えば、一連の年金問題を診れば解ります。 厚労省以下、社会保険庁の役人が叩かれていますが、よく考えなければならないのは、たとえ過去に遡って、役人を全部入れ替えたとしても、おそらく全く同じ問題が起こっていただろうと思われることです。年金行政に関わった人間が皆同じように堕落してゆく。 実はこれは、まったく無関係に思われる、コムスン折口雅博にしても、ホリエモンにしても、あるいは耐震偽装に関わった役人や民間人達も、堕落してゆくシステムは、基本的な部分では皆同じなのです。
 太宰の言う、「戀ひしたふ對象」─とは、裏を返せば、自らを 「拘束する対象」 でもあります。宗教の飴と鞭です。 我々は戦後、「戀ひしたふ對象」 と同時に、自らを「拘束する対象(社会規範)」 をも失った。 我々を監視してくれる「お天道様」がいなくなってしまったのです。 つまり法律だけが、「拘束する対象」 という社会の中で、彼ら役人や起業家達は、同じように誰からの拘束を受けること無く、自分の思うがままに生きてきたのです。 役人は足下だけを見つめて、ベンチャー起業家達はお金だけを見つめて。(日本人のほとんどが今そのように規範の無い社会に生きています)


 しかし、誰が考えても解るように、老人介護や耐震偽装等、事、それぞれの、「倫理意識」 に委ねなければならない問題を、法律によって全てカバーすることは不可能です。社会主義のルールも資本主義のルールも、人の心の問題にまでは及びません。
「戀ひしたふ對象」がいない。 これは、近代化と平行して進むグローバルな問題ではありません。これは、「敗戦国・日本」に個有の、そして重大な問題です。 もう我々には、心の中に、「戀ひしたふ對象(社会規範)」を求めることは不可能であり、社会倫理に変わる─網の目のような「法律」─によって、際限なく自らに、「拘束」 を掻けてゆくしか手がないのです。 【M】