無期懲役判決

無期懲役」判決に賞賛を送りたいと思います。賢明な裁判員は、少なくとも「最終的には社会常識から刑の重さを判断してほしい」という、検察の稚拙なロジックに騙されなかったということです。

 もし、裁判員達が、個人的に重責を負いたくないという理由から死刑を躊躇った結果だったとしてもそのことには何の罪もありません。絶対にそうするべきだったと思います。たとえ心の中では死刑もやむなしと思っても、それは控訴審の審判に任せればいいのです。人の一生に関わるような重い罪は、国家の代理人である「裁判官」が裁くべきなのです。

 しかし、今回、賢明な裁判員に恵まれた被告は幸運だったのかもしれません。歪んだ正義感を持った人や、あまりにも責任感の強すぎる人や、その逆な人が過半数を占めてしまったら、「死刑」判決になっていた可能性も充分にあります。

 しかし、このような「落差」が重罪の裁判に持ち込まれてしまう可能性があることを、どう考えるべきなのか? 日本の裁判員制度とは、千差万別の「社会常識」を持った市民の過半数の支持があれば、人を「懲役」にも「死刑」にもできてしまう制度なのです。
 司法への市民参加は、重犯罪ではなく、「軽犯罪」にこそ適用(被告が希望した場合に限り)されるべき制度です。どうしても重犯罪に適用したければ、死刑制度を廃止するか、アメリカのような陪審制を導入するべきでしょう(有罪、無罪だけを全員一致を原則に審議する)。(M)

「耳かき店店員」殺害事件事件2

ccg2010-10-25

闇サイト殺人事件」では、3人の男が一人の女性を殺した。通常であれば、犯人達はその関与の差によって、それぞれ無期や有期刑の判決が言い渡されたはずなのだが、一人残された被害者の「母」の悲しみが同情を呼び、30万を超える「死刑嘆願!」署名を集め、二人に死刑一人に無期懲役の判決が言い渡された(現在検察が控訴中)。
 また、「光市母子殺人事件」では、母親と乳児を殺害し、その手口が残忍であったということで、当時18歳の少年に死刑判決が言い渡された。裁判過程で、残虐な殺害手口が検察の作り話であったことが発覚したのだが、遺族(夫/父)の極刑嘆願が大きく報じられ、世間では「残虐極まりない事件」という物語が一人歩きすることになった。

 ここには二つの問題がある。
1ー被害者遺族の悲しみが大きければ大きいほど、社会への影響が大きければ大きいほど殺人者の罪は重いのか?
2ー「被害者遺族の悲しみ」と「社会への影響」の強度はどのように判断されるのか?

例えば、「闇サイト殺人事件」の被害者が、母子家庭で育った一人娘ではなく、身寄りも定かでない夜の女だったとしたら、闇サイトで知り合った男同士の犯罪という特殊性がこれほど大きくクローズアップされただろうか。あるいは、「光市母子殺人事件」の殺害状況や、犯人の特種な家庭環境や精神年齢の幼さが正しく報道されていたら、これほど大きな社会問題になっていただろうか。

本来、裁判の場に「被害者」を立ち会わせるべきではないし、「判決」に、社会への影響や、被害者の意思や感情を入れ込むべきではない。なぜなら将来、そのことで、遺族自身が苦しむことになる可能性が極めて高いからだ。
 そう思う理由は次回。(M)

耳かき店店員殺人事件ー残虐性の定義

常軌を逸した男が、か弱い女性を刃物でめった刺しすることと、殺人を決意した男が冷静に心臓をめがけて一刺すること、あるいは、計画的に時間をかけて毒殺を企てること。はたしてこれらのうちどれが、より「残虐」であると定義されるのか?
 
 死刑求刑が予想される初めての裁判員裁判では、殺人現場の惨状が裁判員達に公開された。検察はこれを証拠にこの事件が如何に「残虐」であったかを主張したと思うのだが、しかし本来「残虐性」とは、殺害現場にあるのではなく、殺人者の「心」の中にあるのであって、裁かれなけれるべきはその心のありようでなければならないはずだ。

 そもそも裁判とは、「残虐性」とか「被害者感情」といった恣意的な感情論を排したところで執り行われるべきなのであって、そうでなければ、その時々の国民性の違いや裁判員の人選によって判決の均一性が大きく揺らいでしまう可能性が高い。現実に死刑適用の定義は曖昧なものであって、国家から資格を与えられた裁判官でさえ、明確な判断はできず、死刑判決の数は、10年単位で大きく上下している。

 そのような難しい判断が要求される裁判において、裁判員に残虐性を誇張して、死刑に誘導しようとする検察の作戦は、自己責任で死刑を選択せざるをえなくなった一般市民の「心」を将来的に大きく傷付ける可能性がある。
 死刑が求刑される可能性がある裁判では、裁判官に職務に対する忠実性と責任意識があるのなら、悲惨な現場の写真や、被害者家族の仲睦まじい写真や、凶器などの裁判員への証拠開示は却下するべきである。裁判員には、二人が殺された状況や事件の背景を言葉や文章に寄って知らせれば充分であり、あとは法廷の中で被告の人間性をしっかりと見極めることで量刑を判断すればいいのだ。
 そして、死刑判決は控訴審にまかせて、自ら死刑を選択する事は避けた方がいいと思う。どんな残虐な事件であってもだ。(M)

バンクーバーバカ都知事発言

ccg2010-02-27

もう過去の人というイメージになってしまいましたが、石原都知事がまた、トンチンカンなことをしゃべっています。定例記者会見でも、テレビのワイドショウでも同じ事をいってますから、本人もよほど的を得た発言だと思っているんでしょうが、
─「ニホンの選手は重たいものを背負っていないから勝てないんだよ、つまり国家を背負っていないんだよ」─ 
歴史が証明しているのは、「祝祭」「祭典」などの「ハレ」の場に、国家が口を挟もうとするときは、だいたいが国家の側に後ろめたいことがある時です。 例えば人権を抑圧している時、不景気の時、政に自信が無い時など。つまり後ろめたいことがある国家が、選手に頑張ってもらって、国民の気を逸らしてくれることを期待したのに、思惑通りになってくれないことに苛立っている、つまり選手に、たかろうとしたのにたからせてくれなかったから、責任を選手に押し付けているのです。

 国威発揚を選手に期待するのなら、旧ソ連や中国のように、優秀な選手をすべて国家公務員にして朝から晩まで練習させればいいんであって、僅かばかりの助成金を出しているだけなのに、「勝てないのは国家を背負っていないからだ」 などとよくも言えたものだと思います。
 まあ、オリンピックに出場するために、選手達はどれほどの苦労と努力を重ねてきたのかということなど、国家を背負うことなく「文学ごっこ」をしてきた、あの、恵まれた老人には解らないんでしょうけど。【M】

小沢一郎問題の意味

ccg2010-01-18

国会の力が弱くなると、役人の力が強くなることは必然でしょう。今、日本で一番力を持っているのは、官僚です。もっと言えば、戦後70年のなかで、ひょっとしたら現在、最も強固な中央集権が確立されてしまっているかもしれません。
 これは明らかに、長期間政権にあった、自民党とそれを支持した国民の責任でです。自民党の堕落をカモフラージュしたのが行政機構であり、官僚はその見返りとして過剰な自己保身のための法整備をさせてもらってきました。例えば、過去最大になってしまった来年度予算は、そのような、国会と行政機構との癒着によってがんじがらめにされしまった既定予算にさらに上乗せして、民主党独自の政策を実行せざるをえなくなっているからです。

 さらに大きな問題があります。それは、衆議院選前後から始まった、国会議員の政治資金規正法違反の取締りに象徴されるように、行政機構の中でも、検察権力の力が増大していることです。周知のように日本では、裁判制度は後進国並であって、犯罪取調べは密室で行われるため、犯罪の「本質」は、裁判所と癒着した検察にしか判らないようになっています。せっかく導入した裁判員制度も、軽犯罪には適用されないため、公平な裁判は望むべくもありません。そのような形で、検察つまり行政府は、立法府に脅しをかけていると考えなければならないと思います。小沢一郎問題には、小沢自身の責任問題と、行政の思惑という二つの側面があることを認識しておく必要があると思います。

 したがって、民主党の「脱」官僚政策は、現在、「絵に描いた餅」にならざるを得ないというのが実情でしょう。そのようななかでわれわれに出来ることは、しばらくの間は、つまり自民党と行政が作った歪んだ国家体質を変革できるまでは我慢して、民主党脱官僚政策を支持することであり、そのことで行政にプレッシャーをかけ続けることしかないと思います。【M】


 国会の力が弱くなると、役人の力が強くなることは必然でしょう。今、日本で一番力を持っているのは、官僚です。もっと言えば、戦後70年のなかで、ひょっとしたら現在、最も強固な中央集権が確立されてしまっているかもしれません。これは明らかに、長期間政権にあった、自民党とそれを支持した国民の責任です。例えば、過去最大になってしまった来年度予算は、そのような、国会と行政機構との癒着によってがんじがらめにされしまった既定予算にさらに上乗せして、民主党独自の政策を実行せざるをえないからです。

 さらに大きな問題があります。それは、衆議院選前後から始まった、国会議員の政治資金規正法違反の取締りに象徴されるように、行政機構の中でも、検察権力の力が増大していることです。周知のように日本では、裁判制度は後進国並であって、犯罪取調べは密室で行われるため、犯罪の「本質」は、裁判所と癒着した検察にしか判らないようになっています。せっかく導入した裁判員制度も、軽犯罪には適用されないため、公平な裁判は望むべくもありません。そのような形で、検察つまり行政府は、立法府に脅しをかけていると考えなければならないと思います。小沢一郎問題には、小沢自身の責任問題と、行政の思惑という二つの側面があることを認識しておく必要があると思います。

 したがって、民主党の「脱」官僚政策は、現在、「絵に描いた餅」にならざるを得ないというのが実情でしょう。そのようななかでわれわれに出来ることは、しばらくの間は、つまり自民党と行政が作った歪んだ国家体質を変革できるまでは我慢して、民主党脱官僚政策を支持することであり、そのことで行政にプレッシャーをかけ続けることしかないと思います。【M】

日本航空公的救済の意味

ccg2010-01-14

今朝の、フジテレビ「とくだね」の一場面。日本航空問題で葛西アナが、「経営!?(ではなく)株主責任は」と、あわてて言い直していた。日航問題をめぐっては、ここ数日のメディアは、まるで報道統制を受けているかのように、「経営責任」という言葉を避けているようだ。

 日本航空という会社が、いかに「歪」んだ体質を持っているかは、よく知られているところだが、このところの政府行政の日航問題の対応を視ていると、それがあからさまに分かる。社員にはリストラ、OBには年金の大幅ダウン、そして一般人にはマイレージ株主優待の維持など、国民の気分を害さない手立てを打っておいて、3000億以上の借金の棒引き、そしてほぼ同額の税金による救済。日本の行政は、そのことでいったい誰を守ろうとしているのだろうか。「経営責任」という言葉が聞こえてこないところをみると、一番守られているのは、やはり、日航に天下った、有象無象の元官僚役員達なのだろう。

 昨年末の行政刷新会議を傍聴したときのことは以前に書いたが、偶然行われていた国交省予算の仕分け会議では、日本の空港行政がいかにいい加減に行われてきたかがよく分かった。要するに、政官財は、半国営の日本航空を利用して、空港航空行政を「食い物」にしてきたのだ。

 しかし、問題は、メディアはもちろん国民の多くもそのことをよく知っているはずなのに、日航の「経営責任」を追及する声が聞こえてこないのはなぜかということだ。最近話題になり映画化もされた、山崎豊子の『沈まぬ太陽』にもそのことが中心に描かれている。去年のリーマンショックの時アメリカでは、経営責任を厳しく問うこえが聞こえてきたのに、日本ではなぜ責任が追及されないのか?過去に遡り、歴代の経営責任者から賠償金を取るぐらいのことがどうして、メディアも載らず、議論もされないのか?【M】

井上被告「死刑確定」の不当性を訴える

ccg2009-12-10

 オウム真理教元幹部・井上嘉浩被告(39)の上告審判決があり、死刑が確定した。これで一連のオーム真理教事件での死刑確定者は9名となった。仮に残る4名の死刑が確定すれば、13名の死刑が確定することになる。

死刑13名というのは、歴史的「事件」である。この数は、幕末の「安政の大獄」、明治末期の「大逆事件」での刑死者を上回るのだ。しかし不可解なことは、「安政の大獄」も「大逆事件」も、当然国家反逆罪に相当すると思われるのに対し、明らかなテロ行為であるはずの、「オーム真理教事件」には、国家反逆罪(破防法)は適応されていない。つまりオーム事件は、大規模な組織犯罪であるとは言えず、個々の無責任さと集団心理が引き起こした、「個別犯罪の束」であると解釈できるということだ。要するに、彼らは「愚か」な集団だったという解釈だ。

 で、あるのなら、井上被告に対する最高裁の、「地下鉄サリン事件では犯行全体の円滑な実行のため、不可欠な役割を積極的に果たしたことは、事実関係を率直に供述して事件の解明に貢献したことを考えても、死刑はやむを得ない」、という控訴棄却理由は、正当性を欠くと言わざるを得ないのではないか。【M】