無期懲役判決

無期懲役」判決に賞賛を送りたいと思います。賢明な裁判員は、少なくとも「最終的には社会常識から刑の重さを判断してほしい」という、検察の稚拙なロジックに騙されなかったということです。

 もし、裁判員達が、個人的に重責を負いたくないという理由から死刑を躊躇った結果だったとしてもそのことには何の罪もありません。絶対にそうするべきだったと思います。たとえ心の中では死刑もやむなしと思っても、それは控訴審の審判に任せればいいのです。人の一生に関わるような重い罪は、国家の代理人である「裁判官」が裁くべきなのです。

 しかし、今回、賢明な裁判員に恵まれた被告は幸運だったのかもしれません。歪んだ正義感を持った人や、あまりにも責任感の強すぎる人や、その逆な人が過半数を占めてしまったら、「死刑」判決になっていた可能性も充分にあります。

 しかし、このような「落差」が重罪の裁判に持ち込まれてしまう可能性があることを、どう考えるべきなのか? 日本の裁判員制度とは、千差万別の「社会常識」を持った市民の過半数の支持があれば、人を「懲役」にも「死刑」にもできてしまう制度なのです。
 司法への市民参加は、重犯罪ではなく、「軽犯罪」にこそ適用(被告が希望した場合に限り)されるべき制度です。どうしても重犯罪に適用したければ、死刑制度を廃止するか、アメリカのような陪審制を導入するべきでしょう(有罪、無罪だけを全員一致を原則に審議する)。(M)