「死刑」と日本人

ccg2010-11-08

 堰を切ったように、死刑求刑が予想される裁判員裁判が続きます。「耳かき店」事件で躓いた検察は何としても裁判員裁判による死刑判決を勝ち取りたいと考えているのでしょう。しかし彼らは、われわれは、市民が死刑判決を下すことの意味が解っているのでしょうか?
 『評決のとき』というアメリカ映画があります。なかなか考えさせられる内容だったので、紹介しつつ、日本人と「死刑」について考えてみたいと思います。


 ミシシッピーのある町で、黒人の少女二人が、白人二人に強姦され、子供が生めない体にされてしまいます。 怒りに燃えた少女の父親は、その白人二人を射殺し、止めようとした警官にも重症を負わせてしまう。 黒人差別の激しい町での裁判は、当然被告に死刑を言い渡すと思われたのですが、有能な弁護士が、全て白人の陪審員に対し、さまざまなロジックを駆使して、無罪を勝ち取るというストーリーです。

アメリカでは話題になった映画ですが、日本での評判は良くなっかたということです。 当然といえば当然で、我々の感覚から考えれば、多少の情状の余地があったとしても、いくらなんでも無罪であるはずがない。
 しかし、だからといって、この映画を簡単に切り捨てることはできないと思います。 なぜ陪審員は、全員一致で、「無罪」評決が出せたのだろうか? 有罪の評決の上で、裁判官に情状を求めるのではなく、無罪が確定してしまう、検察が控訴もできない「無罪評決」なのです。
 
 私は、この映画の背景に、「宗教性」を視ます。 つまり彼ら陪審員達は、けして無罪を確信したわけではないと思うのです。 彼らは答えを先送りしたに過ぎないのです。そしてその先に見ているのは、『最後の審判』なのではないでしょうか。 キリスト教を背景にした彼らは、人知の及ばない問題に対しては、その先に踏み込んだ判断を保留することが可能なのです。つまり、責任転嫁が可能なのです。 

 裁判員は、裁判に先立ち、西洋風に、「宣誓」をしなければなりません。でも、日本人は、「神」にではなく、「自分自身」に対して、嘘偽りのない判決を下すことを宣言ければなりません。つまり、どんな結論に達しようと、誰にも責任転嫁ができないのです。
 
 ニホンジン社会には宗教がない、あるいは、責任転嫁のできる超越者がいなくなってしまいました。 だから、たった6名の素人裁判員が、多数決によって一人の人間を、「死刑」にできてしまうシステムの、「本当の恐ろしさ」を、われわれの多くはイメージすることができないと思うのです。

 罪の重さは観念の問題です。死刑のハードルは、常に上下します。
将来、「なぜあの時自分は死刑を選んでしまたのだろう」という苦しみに苛まれる可能性は否定できません。だれの責任でもありません。全てを自分自身で背負い込まなくてはならないのです。(M)