耳かき店店員殺人事件ー残虐性の定義

常軌を逸した男が、か弱い女性を刃物でめった刺しすることと、殺人を決意した男が冷静に心臓をめがけて一刺すること、あるいは、計画的に時間をかけて毒殺を企てること。はたしてこれらのうちどれが、より「残虐」であると定義されるのか?
 
 死刑求刑が予想される初めての裁判員裁判では、殺人現場の惨状が裁判員達に公開された。検察はこれを証拠にこの事件が如何に「残虐」であったかを主張したと思うのだが、しかし本来「残虐性」とは、殺害現場にあるのではなく、殺人者の「心」の中にあるのであって、裁かれなけれるべきはその心のありようでなければならないはずだ。

 そもそも裁判とは、「残虐性」とか「被害者感情」といった恣意的な感情論を排したところで執り行われるべきなのであって、そうでなければ、その時々の国民性の違いや裁判員の人選によって判決の均一性が大きく揺らいでしまう可能性が高い。現実に死刑適用の定義は曖昧なものであって、国家から資格を与えられた裁判官でさえ、明確な判断はできず、死刑判決の数は、10年単位で大きく上下している。

 そのような難しい判断が要求される裁判において、裁判員に残虐性を誇張して、死刑に誘導しようとする検察の作戦は、自己責任で死刑を選択せざるをえなくなった一般市民の「心」を将来的に大きく傷付ける可能性がある。
 死刑が求刑される可能性がある裁判では、裁判官に職務に対する忠実性と責任意識があるのなら、悲惨な現場の写真や、被害者家族の仲睦まじい写真や、凶器などの裁判員への証拠開示は却下するべきである。裁判員には、二人が殺された状況や事件の背景を言葉や文章に寄って知らせれば充分であり、あとは法廷の中で被告の人間性をしっかりと見極めることで量刑を判断すればいいのだ。
 そして、死刑判決は控訴審にまかせて、自ら死刑を選択する事は避けた方がいいと思う。どんな残虐な事件であってもだ。(M)