『坂の上の雲』と国民病

ccg2009-12-01

坂の上の雲』を読んで、思うことはたくさんあるのですが、どうしても解らないことは、なぜ、第二次大戦後日本人は、日露戦争の勝利を過小にしか評価しなくなったのだろうかということです。一度戦争に負けてショックを受けたからといって、それ以前に勝ち取った、世界に誇るべき勝利にまで遡って、「懺悔」する必要があったのでしょうか。 「そんなことはない、ただ関心が無かっただけだ」、と云われるかもしれませんが、大きな戦争に負けたのであれば、その前に勝利した戦争は、逆に過大に評価したくなるのが普通の感性なのではないでしょうか。

 事実、現在の日本軍内部では、奉天会戦の日を「陸軍の日」、日本海海戦の日を「海軍の日」として、静かに内祝いのようなことをしているだけで、国民的な戦勝記念式典などの行事は一切行われていません。関心が無いのではなく、思い出したくないのです。また、単に忘れっぽい国民性なのだという考え方も、説得力はありません。なぜなら、8月15日には偏執的な拘りを見せるからです。第二次大戦の敗戦だけではなく、国民的な大勝利に終わったはずのあの戦争も、われわれにとっては「トラウマ」なのでしょうか。

 私は、なぜ日本人がそういう心理状態になってしまったのかが解き明かされなければ、「司馬遼太郎史観」を肯定することも、否定することもできないのではないかと考えています。もっと大袈裟に言えば、われわれ日本人は、自らの近代史を、いつまでたっても「相対化」することができないのではないかとも思います。
 しかしここにきて、にわかに、『坂の上の雲』ブームが訪れ、国民の日露戦争に対する評価が大きく変わる可能性もでてきました。しかし、自らの精神の病理を隠蔽したまま、楽天的に「日露戦争大好き」状態になったとしたら、その病気は治癒に向かっていると捉えてもいいのかあるいは、逆に悪化し、「躁鬱」が激しくなったと捉えなければならないのかは、だれにも判らないのでしょう。【M】