天皇陛下御即位二十年をお祝いする 「 国 民 祭 典 」

ccg2009-11-13

天皇即位20年を祝って、政府主催の祝賀行事と、財界有志主催の祝賀イベントが行われた。それは少し前のように、政治色を感じざるを得ないようなものではなく、長閑で和気藹々としたものだった。しかし、なぜか舞台上で提灯を振らされる天皇を眼にしたとき、それを祀り上げることの意味など考える知能の無い国民との、奇妙な癒着というか、馴れ合いというか、気持ち悪い空気(共同幻想?)だけが伝わってきたように感じた。
 「天皇陛下には親しみを感じる」とごく普通に思っている国民の多くは、実は天皇を「スケープゴード」として差別していることに、あるいは都合よく利用させてもらっているだけの対象であることにまったく無自覚なのだ。たとえばそれは、天皇の「埋葬」のされかたに象徴的に現れる。
 以下、ずいぶん前にコメントしたものですが、再掲載します。
 

─「天皇家の陵墓「多摩御稜」へ行くと背筋が凍る思いがする。特に近頃の皇位継承騒動を通して、愛子ちゃんや母親の雅子さんのことに想いを馳せると、その感を強くするばかりだ。実際に目の当たりにすると、天皇皇后の埋葬の仕方は無気味というか異常であると言うほかはない。遺体は火葬されることはなく、棺はけして朽ちることのない銅板で作られ、蓋は隙間なく溶接される。そしてその棺は地中深くに埋められ、小山ほどもある盛り土がされたあとその上に石を敷き詰めてしっかりと固められてしまうのだ。 実はこれは典型的な古代の王の埋葬の仕方である。王は御世の時代の全ての「悪」を背負わされ地中深くに埋められるのだ。皇太子はもちろん、雅子さんも、場合によっては将来、愛子ちゃんも地中深くに閉じ込められ、天国に逝くことは許されない。
 まるで古墳を思わせる陵墓は、驚くべきことに、大正天皇の死から復活したものだ。明治政府は単純に王権の利用を考え、古代の習慣を復活させただけなのだろうが、平成の世になっても古代の残酷な埋葬を承認しつつ、「愛子様天皇になってもいいんじゃないの?」という言葉が自然に世論を形成している姿を観るにつけ、浅田彰が昔言った、「土人」という言葉を思い出す。」─【M】