鬼才黒木和雄 『美しい夏 キリシマ』

ccg2009-11-10

かつては鬼才と呼ばれた映画監督黒木和雄の生れた日、その代表作、『美しい夏 キリシマ』 を観る。 以前このブログにも書いた、『父と暮らせば』 と、『紙屋悦子の青春』 と合わせて、三部作を構成している。 いずれも、戦中、終戦後を庶民の立場から描いた、反戦映画だ。 反戦と言っても、政治色はなく、戦争に巻き込まれながらも淡々と生きる庶民の姿だけが描かれている。 
 そのなかでも、『美しい夏 キリシマ』 は、黒木和雄渾身の一作といって間違いないだろう。
黒木和雄の精神の中にずっと仕舞い込んできた人生の「汚点」、その 「汚点」 に正面から向かい合った作品が、この 『美しい夏 キリシマ』 なのだ。

 黒木和雄は少年時代、空襲してきたグラマンの機銃掃射で、親友を亡くすという経験をもっている。 その時すぐ隣を歩いていた黒木は、恐怖のあまり、「頭をザクロの様に割られ」ながらも、助けを求めすがってくる親友を見捨て、逃げてしまったのだ。 映画は、その後の、終戦の年の夏の、少年の心の葛藤を描く。 
 激戦の沖縄が陥落し、いつアメリカが上陸してくるか判らない南九州(キリシマ)には日本軍が集結している。 しかしキリシマの麓では、北九州を攻撃するのであろうグラマンの編隊が、何事もないかのように、ゆっくりと、青空のなかを飛び去ってゆく日々が続くばかりだ。
 ─起こるべき「事」が、何も起こらない─。 
密かに親友と同等の「破滅」を期待する少年の心には、いつまでつづくのか判らない、のどかな美しい夏の風景が、親友からの静かな責め苦のように感じられるのだ。
 結局、戦争など起こらなかったかのように、キリシマの麓では、終戦を迎える。 死ぬことも、仇を討つこともできなかった少年は、その葛藤を、心の奥深くに仕舞いこむ他はなかったのだ。

長い日本の映画史のなかでも、これほど美しい映画は稀である。 かつてはドキュメンタリー映画作家として名を馳せた黒木和雄が、これほどまで耽美的な映画を撮るとは、誰が予測しただろう。 『美しい夏 キリシマ』 と合わせ、『父と暮らせば』 、『紙屋悦子の青春』、この3作は必見である。【M】