増田美智子著 『福田君を殺して何になる』2─感想

ccg2009-10-17

 増田美智子著『福田君を殺して何になる』は、光市母子殺人事件の経緯を追うものではなく、その多くが、福田君自身ほか、彼の過去を知る人や裁判関係者へのインタビューで構成されている。それは、これまで断片的にしか伝えられてこなかった犯人の素顔をかいまみることができる貴重な資料であり、なぜ、あのような事件を起してしまったのかを考える上で有効な材料となるだろう。
 しかし、インタビューの内容は、特に福田君本人へのインタビューは、事件に対しての大まかな心象を伝えるものが中心を占め、検察側と弁護側の言い分の違いとなっている具体的な行動を示した上でその時の彼の心象を聞く、ということはあえて控えられているようだ。それは、この一連の裁判の中で、最も重要だと思われる、差し戻し審での「妄想」?陳述についても同じである。
 著者が、この本で言いたかったことは何なのか? 死刑判決を不当と考える著者が、犯人の人となりを伝えることの必要性を感じたということは分かる。しかしこの本を読み終えた後、率直に感じることは、著者のこの事件、裁判に対して取る基本的なスタンスは本当に正しいのだろうか? ということだ。それは実名報道云々という問題ではなく、著者は、人の一生を左右する裁判の核心部分を見誤っているのではないかということだ。

 私は、この本のことを報道で知ったときから、『福田君を殺して何になる』というタイトルに違和感を持った。そしてそのように感じた理由は、読み進むうち、最後に弁護団から解任された、今枝仁弁護士の巻末の文章を読むことではっきりした。それは、著者は、「福田君はこの事件で、無期懲役相当の罪を犯している」ことを「前提」としてこの本を書いているということだ。
本来であれば、著者自身が「ずいぶん成長していると感じた」と述べているように、著者が福田君と初めて接触する遥か以前へと遡れば、事件当初福田君は、家庭裁判所が示したように本当に幼かったのであり、「妄想」陳述は単なる妄想や弁護団のレトリックではなく、本当の彼の心の顕れだった可能性は高い。つまり、著者も、情状酌量という方法も取り入れるべきだという立場の今枝弁護士も、無期懲役どころか、極端に言えば、罪そのものを問うことの問題さえ議論されなければならないということが、視野から抜け落ちており、そしてそれが、『福田君を殺して何になる』、というタイトルとして表れているように感じるのだ。
それは、事件を吟味する以前から、「罪を憎んで人を憎まず」という単純な大義名分の範囲に留まるものであり、それは、弁護団が考える裁判の核心部分とは次元(スタンス)が違うのではないかと思うのだ。そういう意味では、私は著者ではなく弁護団を支持しようと思う。

この本は、一面では貴重な資料足り得ていると思う。そして反面では、この事件に対する世論が、単純に死刑を支持する者と支持しない者に分かれているわけではないことを、著者の真意とは無関係?に示してくれていると思う。
また、実名報道についても、資料としての強度を補完するために必要だと言う理由から支持したいと思うが、反面、上記の理由から、タイトルへの不満と同時に、誤解の範囲を広げる恐れがあることを理由として、最後の今枝弁護士の文章は掲載するべきではなかったと思う。【M】