ニホンジンの差別感情 ハリセンボン騒動から

ccg2009-04-17

ニホンジンは、不思議な差別意識を持っている。 普通、人種や宗教に関る差別にはいつも、非倫理的といううしろめたさが付き纏い、そして被差別者にとっては、そのことと戦うことが、生き抜く上でのアイディンティティーとなったりもする。
 しかし、ニホンの場合の差別は、苛め、排除するという方法ではなく、「区別」し、「保護」するか、あるいは、「無視」するという形を採る。 ハンセン病差別、部落差別、結核差別などは前者にあたり、残留孤児差別、南米移民差別などは後者にあたる。 したがって、たとえば先日の吉本タレントの結核騒動でも、無神経なマスコミ報道が、28000人の患者を窮地に追い込んだという認識はほとんど現われてこない。
 
 例えばハンセン病差別では、40年以上も隔離法の廃止が遅れたニホンでも、当然、行政に対して患者達の激しい抗議行動があった。 しかしそれを拒否した厚生省の幹部は、テレビでのインタビューで、「彼ら患者は、隔離してあげた方が幸せなのだ」 と言っていた。 つまり、幸か不幸か、われわれニホンの健常者は、過去アイディンティティーの危機に直面したことがないため、「主体性」という方法論を立ち上げる必要が無く、被差別者のみが感じることのできる、「主体としての苦しみ」を、イメージすることができないのだ。 つまり、われわれには、「差別」という概念そのものが、欠落してしまっているのだ。 

 先日の結核問題でも、まったく同じことが言えると思う。 少し考えれば、タレントであることが、ことさらに感染の拡大を発生させるとは思えないし、実際ごく身近な人にも感染していない。 にもかかわらず大袈裟にマスコミまで動因して相談窓口を設置したり、「マスクをつけずに街を歩くことはテロにも等しい」 と言って見たりというのは、マスコミの利益となる話題性と視聴率が、一人の有名人の患者と、28000人の闘病者を窮地に追い込むことを厭わないということだ。 つまりそれは、ハンセン病差別と同様に、「差別」という概念そのものが、欠落してしまっているからできることなのだ。

 そして、問題は今、新たに、「犯罪者差別」が進行しつつあると感じることだ。 これまでの犯罪者差別は、「無視」するという形を採ってきたような気がするが、裁判員制度を前にして、もっと積極的に、「虐め、排除する」ような対象として犯罪者を観るようになった。 これは、社会全体のストレスが増大した結果であり、それは重い判決に国民がこぞって喝采を送る姿に象徴されていると思う。 かつての公開処刑と同じだ。

 あらたなスケープゴードを、もっと直接的に虐めの対象とできる合法的スケープゴードをわれわれは求めている。 そのような社会が、以前よりも良くない社会へ下降しているかもしれないということを、感性的にではなく、「主体的」に認識する必要があると思う。【M】