「死刑」についてその1

ccg2009-03-27

フランス革命では、恐怖政治と呼ばれる時代、短期間に2800名を超える、「反革命分子」がギロチンによって処刑された。 興味深いのは、その数の多ささよりも、ほとんどの受刑者が、うろたえることなく静かに死んで行ったという異常さだ。 でも、考えてみればそれは、処刑シーンが映像に残されるようになった近代に至っても同じで、戦争関係のドキュメンタリーなどを観ていても、処刑シーンのなかでは、泣き叫び殺されてゆく兵士はいままで見たことがない。 諦観というか、おそらく、「死」や「処刑」が身近な状況になると、生命は相対的に軽く感じられるのだろう。

しかし、現実に「死」が身近になくても、さまざまなメディアが「死」をイメージさせる現代では、それに近いことが起るようだ。 主観だが、光市の事件以来、「死刑」が、特別なことではなくなってしまったような気がする。 つまり、死刑は「極」刑ではなく、相対刑になったということだ。 でもそれは、法律が変わったわけでも、凶悪犯が増えたわけでもない。 変わったのは、われわれの心理の中の「死」が、遠くのものから、身近なものになったということだと思う。

 光市事件や闇サイト事件が、必要以上に「凶悪」さが強調されるのは、過去の凶悪事件に比べて特別に凶悪だからではなく、「死刑」のハードルが下がっただけであって、(自分には女子高生コンクリート詰め殺人事件の方が恐ろしく凶悪だと思うが)、それを自覚することのうしろめたさから、ことさらに凶悪さを叫んでいるのではないかと思うのだ。

本当に考えるべきことは、どうして凶悪な事件が起るのだろうということよりも、どうして現代社会では、「生命」が軽く感じられるようになったのか? ということの方なのだと思う。【M】

絵:会田誠