「死刑」について その2

ccg2009-03-29

凶悪」さ、というのは当然のことだが、絶対的な基準はなく、相対的なものだ。 光市事件や、闇サイト殺人事件がそれまでの殺人事件と比べて、どれほど凶悪かということは、その時々の社会心理に寄るとことが大きい。
 かつて、永山事件で東京高裁で示された、「死刑判決は、いかなる裁判所でも死刑を選択したであろう場合に限られる」という判断基準がある。 つまり、「死刑判決」は、その総量が増えれば増えるほど加速度的に増えてゆき、逆に減れば減るほど減ってゆく傾向があるということで、 要するに、「極刑」とするかどうかは周りを見て決めるということだ。 「いかなる裁判所でも死刑を選択したであろう場合」などということが絶対的な基準になるはずがない。


 重要なことは、例えば、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の犯人がすでに全員娑婆で暮らせているように、つまり死刑のハードルが極めて高かった時代があったように、いつの時代にも社会心理が変化する、「分岐点」があるということだ。
 今、明らかに死刑判決は増加傾向にある。 特に2000年あたりから顕著になるが、今なぜか、個別の事件とは無関係に社会心理は、「死刑」を求めているのだ。 (当然犯罪抑止効果云々は、その下位にあたる問題だ)
 さまざまなことが重層的に積み重なってその要因を作っているのだろうが、認識しなくてはいけないことは、犯罪者が、社会心理作用の「スケープゴード」となっている可能性があるということと、そのために、裁判員制度導入によって、「民意」(社会心理)が強く反映される裁判になれば、死刑判決のハードルは、さらに下げられるのではないかということだ。 【M】