「死」についての難題

ccg2009-03-26

あまり裁判や、死刑問題とは関係ありませんが、ずっと以前に「死」の問題について書いたものがあったので、再掲載します。【M】

「長い時間車に乗る時、たまに放送大学とかを聴くことがあるのだが、先日、心理学者だか脳神経外科の医師だったかが、おもしろいことをしゃべっていた。 
 ある臨床例で、植物人間になった高齢の患者がいて、その患者が、意識は全く無いのに、大きなうなり声をあげたり、苦しそうに体を捩ったりしている。 そこで、これはなんだろうと思ったある医師が、例えば患者が、「あ〜」とうなったら、自分も同じように、「あ〜」っとうなってみた。「え〜」っとうなったら、「え〜」っというぐあいに。 そしてそれを長く続けているうちに、それが、ある意味のある言葉だったことが分かったと言うのだ。
 それは、「船に乗りたい」 といっていたのだ。 そこで同じような長いスパンの言葉で、「そ〜の〜ふ〜ね〜に〜のって〜み〜た〜ら〜」 と言ってみたところ、「仕事が忙しいからそれは無理だ」 と長いスパンの言葉で返してきた。 さらに、よく聞くと、その船はバハマに行く船で、自分は一度でいいからバハマへ行きたかったという。
 おそらくこの患者は、夢をみているのだろう。 そこで医師は患者に向かって、 「あなたは、いままでよく働いた、少し休んでその船に乗ってみたら」 といってみたところ、すこし間をおいたあと、「じゃあ乗ってみる」 と返してきた。 その患者はその後、安らかに息を引き取ったという。 

 この話しを僕は治療のための臨床例のつもりで聞いていたので、「死んじゃったの〜!」 っと思ったが、考えてみれば、これはある意味、もう回復することが不可能な患者を、尊厳死、あるいは自然死へと誘う、立派な医療なのかもしれない。 

 そして全く逆の例として。 生前から、延命治療を拒否していた老人がいたのだが、その老人が脳梗塞で倒れてしまった。 レントゲン検査では脳幹も真っ白になってしまうほどの重症で、植物人間になってしまったのだが、その老人の娘はやはり延命のための治療を行うことにした。
 闘病の間、ずっとそばにいた娘は、ある時、父親の微かな唇の動きに気が付く。 そこで、「私の言うことにイエスだったら、唇を動かして」 と言い続けてみると、かすかにだが、返事をしているように見えたという。 全く信用しなかった医師の前で実際に質問してみせると、確かに唇が動く。 しかしこれは何かの条件反射だろうというので、娘は、「お父さん、もっと生きたい?」 と聴いてみたところ、なんとその老人は、ぐわ〜!っと、大きく口を開いたというのだ。

 しかし、考えれば考えるほど、この二つの話しは怖い。 生命の強さとか、不思議とか言っているのではない、その逆だ。 延命医療によって、とりあえず脳が生きていると言う場合、いままではそれはどちらかというと本人ではなく、家族の側の問題だった。 しかしそこに、「本人の意思」が加わってくるのだ。 つまり、脳死患者の動きや表情は、単なる夢や条件反射ではなく、そこに確かな「要望」があるということだ。 しかもそれは「生死」に関わる要望なのだ。
 脳死であるはずの患者にも「意思」がある可能性が出てきた。 いままでは、精神は死に、肉体だけが生きていると思っていたから、家族は生命維持装置をはずすことが可能だった。 しかし脳死患者にも「意思」があるとしたら、でも自己表現だけができないとしたら、家族は極めて難しい状況に追い込まれることになる。 生命維持装置を外すことは、その家族にとっては、「殺人行為」にもなりかねないのだ。」