批判コメントから ─「土人」の感情

ccg2009-02-07

最近、裁判員制度問題、死刑制度問題、光市母子殺人事件判決に視られる不可解な裁判等について書くことが多かったのですが、いくつかの不可解なコメント(二つのブログにまたがっています)をいただいたので、一部紹介しつつあらためてニホン人の「司法」感覚についてコメントしてみます。


>1「バカ過ぎて呆れるわ。」(http://moritakuto.exblog.jp/7749760/ に対してのコメント)
>2「死刑反対者とは言え、上の説明はあまりにもおそまつ。」(同上)

>3「母子に傷が残っていなかった? 死亡に至るまでの原因を作りながら証拠が必要ですか?現在の鑑識のレベルでは見つかられないと言う事でしょう。あなたの理論では、死体に怪我が無ければ無罪とも言い出しかねない。この事件について、死刑反対を議論するのはやめた方が良い。」(同上)

>4「遺体には、首を絞められた痕跡がない? 母親の首にはちゃんと扼痕(手で絞めた痕)が付いてます。赤ちゃんの首にはちゃんと索条痕(紐で絞めた痕)が付いてます。叩き付けられた時に負ったであろう傷も何ひとつ無い? 赤ちゃんの頭には3つの打撲痕がありますが。」(同上)

>5「福○のかわりに死刑になれよ」(同上)

>6「何人をどういった経緯で殺害したから死刑という事ではなく、どういった罪を犯したのか、という事で裁かれるべきではないでしょうか?一人も三人も同じ命。遺族にとってはかけがえの無い存在でしょう!一人も三人も同じ命。遺族にとってはかけがえの無い存在でしょう!ありとあらゆる状況を加味しても、それでもなお殺された被害者があまりにも浮かばれない。そういった事件を少しでも抑制するために死刑制度があるのではないですか!? ありとあらゆる状況を加味しても、それでもなお殺された被害者があまりにも浮かばれない。そういった事件を少しでも抑制するために死刑制度があるのではないですか!?このところあまりにも理不尽で残忍な事件が多すぎます。犯人が精神的に未発達だろうがなんだろうが、殺された被害者の無念を考えるとその罪は大きすぎると考えます。中途半端な人権論を振りかざすのはやめにしていただきたい。」(http://moritakuto.exblog.jp/7860102/ に対してのコメント)


つまらない議論はしたくないので、全体の印象にとどめますが、「裁判」とは何かということがまったく解っていませんね。ニホンの近代化が如何に遅れているかが分ります。 表面だけが近代的に見えていても中身が全くプレモダンな状態、つまり「疑似モダ二ズム社会」を象徴しています。それがよく分かるのが例えば>6のコメントで、完全に裁判を「報復の場」と考えています。例えば村上龍がネット上の対談の中で、
─「最近は社会から寛容さが失われて、みんなイライラしているような気がするんです─中略─あるいは犯罪被害者は犯人に死刑を求めることが多い。マスコミに聞かれるからでしょうが、「子どもは帰ってこない」と言います。日本は被害者の救済システムが法的に整っていないし、宗教も機能していないということもあるのですが、あまりにも懲罰的になって、暗くなることがあります。」─
と言っていますが、要するに社会状況に流されるままに「イライラ」しているニホン人が、新たな「スケープゴード」を生産しようとした結果が、昨今の犯罪者の厳罰化なのです。光市母子殺人事件などは、すこし冷静に考えれば、死刑のはずがない。にもかかわらず日本中が判決に喝采を送っています。あるいはネット上で初めて知り合った3人の男が一人の女性を殺した事件では、自首した一人も含めて全員が死刑求刑を受けましたが、厳罰を求めて30万人近い人の署名が集まったそうです。そういえばテレビのコメンテーターも、「国民の負託に答えるべく勇気ある判決を求める」なんでことを言っていました。

 昔からニホンには、異人種、異教徒などの解り易いスケープゴードがいないため、同胞の中の弱者(病者、犯罪者)をスケープゴードとすることが自然に身に付いています。つまり、あまり後ろめたさを感じなくて済む「差別」が日常的に行われているのです。 以前、浅田彰がニホン人のことを「土人」と評して物議を醸しましたが、まったくもってその通りだと思います。 ただ勘違いしてはいけないのは、西欧人もそれは同じで、彼らがニホン人と違うのは、ほっておけばそうなってしまう「土人」状態にならないために、近代社会を「意思」を持って、維持しているのです。自然な、感情つまり裁判でいえば「報復裁判」にならないように我慢しているのです。 近代社会に生きる以上、「自然な感情」を棚上げする覚悟をもたなければいけません。【M】