乱発される「死刑求刑」の意味

ccg2009-01-26

わずか一ヶ月前、NHK『日本のこれから-裁判員制度』の前半のドキュメンタリーでは、殺意をもって二人の人を殺した犯人に対し、「死刑」判決を出すかどうかが焦点となっていた。しかしここ一週間ほどの間に、一人の女性を殺した男と、3人で一人の女性を殺した男達に対し、たて続けに死刑が求刑された。

 私は、世論の先導によって未成年の、しかも精神的に未発達の少年を「死刑」に追い込んだ「光市母子殺人事件」以来、このような状況になることを危惧していた。
この求刑に対し、司法当局は、その独立性を完全に放棄し、裁判を世論に迎合した「報復の場」としてしまうのか。あるいはこう言った方が適切か?行政の意向に従い、無知蒙昧な愚民に対する、「公開処刑」という名の行政サービスの片棒を担ぐことになるのか?

 司法当局に倫理がまだ残っているなら、直前に迫った裁判員法施行前に、これらの犯罪に対して、早計に死刑判決を出すべきではない。行政が望むように「市民感覚」を司法に活かしたいのであれば、今後の判決に大きな影響を与える判例となるであろうこれらの事件は、裁判員法施行後にその動向を見極めてから審議するか、あるいは特例として、裁判員には酷ではあるが、裁判員制度下での審議とするべきだ。
 この事件の判決を、おそらく行政が期待しているであろう、裁判員法施行前の「判例」にしてしまってはいけない。今後、裁判員達は多発する殺人事件に際し、「死刑」を回避する根拠がますます失われてしまうことになる。 【M】