星島貴徳容疑者の死生観

ccg2009-01-16

 東城瑠理香さんを殺害しバラバラにして捨てた、星島貴徳容疑者は、公判中に突然、「私は絶対に死刑です!」と叫んだ。自分ならどんな女性でも性的奴隷にできると考える妄想癖の男がイメージする「死」とはどんなものなのだろうか。監禁、暴行罪で済むところを、警察に見つかることを恐れて殺害を決意してしまう男にとっては、自分の「死」でさえ、他人の死と同等に軽いのだろうか。

 しかしこの、「死」あるいは「命」の軽さは、殺人者に特徴的なことではない。「命」の軽さは、われわれニホン民族が古くから抱える、精神的欠陥のひとつだ。解りやすい例を挙げれば、例えば、裁判員法の規定にもそれは視られる。これまでにも書いてきたことだが、多数決で「死刑」が宣告できてしまうことの異常性であり、そして、それがさらに深刻なのは、「全員一致が無理ならせめて三分の二でも」というような具体的な議論になってゆかないところにある。つまり、ニホンジンにとっての「死」はあくまでも概念の問題であって、現実的な問題とは感じていないということなのだ。 例えばそれは、「私は絶対に死刑です!」と叫ぶ、星島容疑者にとっての他人事のような「死」のイメージと実は近いところにあるのだ。

 ニホンにはどうして死刑制度が残っているのか。 それは、上記のようなニホンジン独特の「死生観」が今でも充分に機能しているからだ。 例えば、死刑を容認する者は、自分の死生観を素直に表現すればよいが、死刑を廃止しようとする者は、自らの死生観から一歩踏み出た、高邁な理念を立ち上げなくてはならない。つまりそれは、ニホンジンの心理の底では、「死」はそれほど重大な問題ではないと感じているからだと思う。 前にも、「死刑よりも終身刑の方が残酷だ」と言った裁判官のことを書いたが、ニホンジンにとってはそれが「自然」なのだ。【M】