夏目漱石は何故暗いのか

ccg2009-01-15

さらに追記として─

水村美苗著『日本語が亡びるとき』 には、あえて取り上げられていない問題がある。 それは、なぜ日本語が、かな・漢字・カタカナを取り混ぜたものとなったのか?ということだ。 あまり認識されることはないが、この問題は実は、ニホンジンの性格の形成にも関わる重要な問題で、例えば、なぜニホンだけが明治以降、急激な近代化に成功したのかという「謎」の答えにも繋がるのではないかと思っている。 実際に、外来語を、表音文字のカタカナで表現すると決めた時、ニホンの高度成長は決定的なものとなったといってもいいのだ。

 「近代化(モダニズム)」というのは、前近代的な「魂(和魂など)」と、どうしても衝突してしまうもので、帝国主義の時代の後進国が、ナショナリズムの炎を燃やせば燃やすほど、反近代的な立場をとらざるを得なかったのは当然のことだ。 しかしそのなかにあって、日本だけが近代化に成功したのは何故か? その秘密がまさに、カタカナの採用にあったのではないかと思う。
 もちろん、カタカナが優秀な文字だったからというのではなく、単に、ニホンジンが、カタカナ(洋才)を母国語の中に混ぜ込むことに対して、「恥だ!」と、思わなくても居られる性格だったということだ。 つまり、外来物をナショナリズムによって排除するのではなく、「カタカナという差別文字に担当させて区別する」、という方法を編み出したことが、ニホンの近代化に、というかニホンジンの心理に、モダニズム服従することへの「正当性」を与えることとなったのだ。 つまりニホンにあっては、カタカナの存在が、ナショナリズムモダニズムを矛盾しないものとしたのだ。

 そこで、最大の「謎」は、なぜそのような「国語」が可能だったのか?ということになる。 卵が先か、鶏が先かというはなしになってしまうが、「ひらがな・漢字混じりの言葉がニホンジンのナショナリズムを希薄化させたのか?」 あるいは、「もともと島国でナショナリズムが希薄だから、母国語に外来語を混ぜ込むことに無自覚でいられたのか?」
 しかし、いずれにしても、日本の近代を特殊化して、「内発的ではなく外発的だ」という、普通の国ならごくあたりまえのことを、「主体性」などという内面の問題に置き換えて苦しんだ漱石に象徴されるように、早々とナショナリズムの旗を降ろしてしまったニホンジンの心理には、ある種の「うしろめたさ」のようなものが、いまだに拭いきれずに在るように感じられる。【M】