水村美苗著 『日本語が亡びるとき─英語の世紀の中で』

ccg2009-01-11

水村美苗著 『日本語が亡びるとき─英語の世紀の中で』 について
 水村美苗の 『日本語が滅びる時』 は、ものすごく暗い書物です。 中心は、英語という普遍語に蹂躙されようとする、「日本語が滅びる時」に接している、文学者としての悲しみの吐露です。 しかし著者の本当の悲しみは、日本語問題に限るのではない、─どうしようもないモダニズム─への悲しみです。 日本列島に無数にあった言語が、「日本語」に統一されたように、全ての言語が、「普遍語」に統一されるであろうことへの悲しみです。 それはかつて多くの精神性を表現した多極的文化が、中央集権化されてしまうことであり、しかもそれは、全ての文化に起り得ることです。
 民族音楽で有名な、小泉文雄がその著書、『フィールドワーク』のなかで、興味深いことを書いています。 かつてインドの音楽家は、「ド」と「レ」の間に、半音だけでなく、8つの音を使い分けていたというのです。 普通に考えれば、平均律、つまり半音さえあれば、全ての音楽は表現できると思ってしまうのですが、じつはそれより遥かに複雑な音楽が実在していたのです。 しかし今そのような音楽を聴いても、私たちの耳は、「翻訳」された、平均律の音楽として聞いてしまうでしょう。 もうそこにあるはずの深い内面世界を体験することはできません。
 
 母国語を失うということはどういうことでしょうか? 英語という普遍語を話し、書くようになったとしたら、私たちは、かつて「表意文字」を用いた文化に生きていたことを、どのように認識するのでしょうか。 例えば、喪失したものを偲び、悲しむことは可能なのでしょうか? 例えばまた、英訳された俳句の世界に、「岩に滲み入る蝉の声」を聴くことは可能なのでしょうか? さらに、私たちは他に変え難い多くのものを喪失してしまうのではないか? しかしこの書物の悲痛な暗さは、そのような悲しみからではなく、それらすべての記憶を「喪失してしまうことへの恐怖」によるものではないかと思います。 つまり、自身が痴呆してしまうこと対する恐怖と同じです。「痴呆になってしまえば本人は幸せ」というほど惨めなことはありません。

 日本語が滅びても、その過程に接しない限り、わたしたちは悲しみを感じることはありません。 例えば、「俳句はすばらしい」と言うガイジンを、嘘っぽいと感じますが、いずれ私たちもそのような、ニホンジンになるのです。
 しかしそう考えると、今が充足していると感じているわれわれは、本当に痴呆ではないといえるでしょうか? わたしたちはすでに多くのものを喪失してきました。 言語で言えば、例えば沖縄の離島を旅すると実感できますが、わが日本でも、無数の言語を抹殺してきました、いや、現在でも抹殺しつつあります。 しかし私たちはそのことで悲しみを味わった記憶はありません。 (ちなみに沖縄の離島では、各島ごとに言葉が違うのですが、そこではお年寄りが話している言葉を理解することは英語を理解するよりもはるかに難しく、なんと実質的な沖縄弁は、各離島で唯一、共通に観ることができる、「NHK語」です。 例えば、宮崎弁では、「どげんかせんといかん」 ですが、沖縄弁では、「なんとかしなければならないさ〜」 になります)

 話しは戻りますが、私が水村美苗の 『日本語が滅びる時』 を読んだきっかけは、最近、日本語に関する二つのエピソードを体験したからです。 一つは、朝の「NHKおはよう日本」で見たのですが、小泉規制緩和政策によって作られた、「株式会社小学校」の授業では、国語以外全てが「英語」で行なわれていることを知ったこと。 もう一つは、英語を解さない研究者が、「ノーベル物理学賞」を受賞したこと、つまりローカル言語でも、最先端学問の研究が可能なのだということを知ったことです。
 当初私は、後者によって、前者を否定できると思いました。しかし、この書物を読んで、根本的に考えを変えました。 よく考えてみれば、「文学は死んだ」と云われる現代、英語以外のローカル言語全てにおいて、それがノーベル物理学賞が受賞できるような言語だとしても、そのような「カタログ語」としての言語が保存されることに、意味があるのか? あるいは、ベストセラー『チームバチスタの栄光』のような小説は、英語で充分なのではないか? つまり、いまの時代には、「深遠な表意言語」などもう必要としないのではないか?
 つまり、だれがどのような抵抗をしようが、必然的に、『日本語が滅びる時』は近づいていると感じたのです。

 わたしたちはこれから、「母国語」である日本語に対して、どのような態度をとるべきなのでしょう? あるいは、そのような考え自体まだ可能なのでしょうか?【M】