「上意下達」の裁判員制度

ccg2008-12-24

 行政主導による、参審制の導入は本来的に可能なのだろうか。司法を味方とするべく、「民意」が、立法府を動かし、その意向を受けた行政府がそのシステムを作るのだと、文字通りに考えるならば、日本の裁判員制度は、それとは逆に、「上」から降りてきたという感が否めない。 確かに、最高裁判所による意見書には、「民意の要望を反映」 したものと書いてはあるし、国会で承認されてはいるが、ほんとうにに民意が反映されたと考えている人がはたしてどれだけいるか。 

 昨今の裁判員制度の是非を廻る議論をみていると、「三権分立」を形だけ輸入して、その本質的な、「魂」の部分を後回しにしてしまった日本では、司法の立つ「場所」がよく分かっていないのではないかと思う。 過日の、NHK「日本のこれから─裁判員制度」 での議論にもあったが、「参審制の導入によって裁判が良くなるか?」 という議論に収斂してしまう状況がそのことの象徴だ。
 「参審制」によって得られる利益は、国民的常識感の導入や、判決の公平ということではなく、【三権の一つのイニシアティブを国民が握る】 ということだ。 極端に言えば、裁判が悪くなることを、受け入れる代わりに、司法への参加を要求することが、本来的な「民意の反映」なのではないか。 裁判が良くなるか否かは、その後の努力目標と考えるべきなのだ。

 参審制に反対する勢力の根拠である、裁判員の迷惑、素人による判決の難しさ、そこからくる不公平、などは、実は反対理由に成りえていない。 現状で参審制を否定できる正当な反対理由は、三権を統一し、さらなる中央集権を勧めて国による指導力を強めてほしいという理由しかあり得ない。 反対に、推進派の賛成理由の根拠である、市民参加による民意の反映、も、その理由足りえていない。 なぜなら、裁判員法がそのようなシステムになり得ていないからで、本当に参審制を求めるならば、この「裁判員法」を否定しなければならないからだ。

 これから訪れるであろう、「格差社会」 のなかで、弱者、敗者の味方になり得る権威は、「司法」しかない。 そのようななかで、いま行われている賛成、反対の議論は、あまりにも稚拙だと言わなければいけないのではないか? 行政から上意下達によって強要された制度の議論は、両派にとって、徒労と化す可能性が極めて高い。 両派とも、この程度の粗雑な制度は一蹴したうえで、正しい参審制度に向けた真剣な議論をする必要があるのではないか。 【M】