スケープゴードとしての犯罪者

ccg2008-12-15

古くから「法華信者」という一団がいる。この信者達の最大の特徴は、日本には珍しく、ポジティブな考えをもっていて、他の宗派のように、極楽浄土は「あの世」にではなく、この世に成就させなければいけないという考えを持つ。だから日本で今、布教活動をしている新興宗教のほとんどは、法華経を根本としている。個よりも全体を重要視し、時には、「国家」の発展が最高目的となる。戦前の国家主義者のイデオローグの多くが、法華信者であり、自己犠牲を美しく描いた宮沢賢治も、健気な法華主義者だった。

 最近、裁判員制度の問題点についていろいろな人と話しをするが、一番厄介なのは、このような、「プチ・法華主義者」達だ。「とにかくやってみなければ何も始まらないじゃないか」、これが彼らの口癖なのだが、しかし正義感が強い?、彼らは、自分達の中に在る、「差別(区別)主義」に気が付いていない。つまり、「犯罪者は正しい司法制度の確立のための、「礎」となるべきだ」、と考えている。実際そのようには考えていないと思っているかもしれないが、そう推理しなければツジツマが合わない。

 実態(人種、宗教等)としてスケープゴード(被差別者)が視え難い日本の中では、弱者、敗者がその対象となるが、犯罪者も当然そのなかに入る。そしてまだまだその絶対量が足りないと感じている社会では、一旦容疑者となって被告席に立たされると、「推定無罪」などは関係なく、99.9パーセントの被告は一様に「犯罪者」のレッテルが貼られてしまう。
 日本の、裁判員制度も含めた司法制度の最大の問題は、「司法」が、権力から独立した権威として、敗者弱者の立場に立つのではなく、その中に、スケープゴードを作り出してしまうようなシステムが入り込んでいることだ。 そして、現代のプチ・法華信者たちは、そのことの片棒を担いでいることに、全く無自覚であるように視える。【M】