「日本のこれから 裁判員制度」 に参加して

「NHKスペシャル─あなたは死刑を言いわたせますか」より
金もなく仕事も無い男が、強盗にではなく、泥棒にはいる。そこで運悪く見つかってしまった夫婦を刺し殺してしまう。そして死刑判決。

 ふたりの人間を殺意を持って殺せば一律「死刑」になるということは、A:一つの事件で突発的に二人の人を殺すことと、B:二つの事件で一人ずつ二人を殺す事の「差」を認めないということになる。 それにしても、「死刑」は「極刑」とも云われるが、これではその「極」にある幅が大きすぎないか? 
 例えば昭和30年代に比べ、殺人事件は半減しているにも関わらず、死刑判決が一向に減らない原因の一つが、こういうことだとすると、早急に参審制を導入して「民意」によって彼らを救い出さなければならない。 しかし、こともあろうに、死刑を言い渡したのは、一般市民なのだ。 本来であれば、このような「ベルトコンベア式死刑判決」に歯止めをかけるため、「民意」は、Aと、 Bの凶悪の程度に明らかな「差異」を見いだし、被告を救い出さなければならないのではないか。 

ドキュメンタリーとはいえ、「裁判員制度」導入を前にして、この現実に暗澹たる思いを感じるのは、私だけだろうか? 日本で参審制を導入する場合の最大のネックは、制度の内容云々ではなく、実は、成熟していない、われわれ日本人の精神なのではないか?
このことは、後半に行われた討論番組の終盤、「市民参加で裁判は良くなるか?」での討論内容によく表れている。 それは、市民感覚、常識感の信憑性ばかりが議論されていたことだ。 先進国で、「参審制」が必要とされているのは、裁判に市民感覚を導入し、裁判を良くすることではなく、「司法を市民のもの」とするためなのではないかと思う。つまり司法の独立だ。

 格差社会から生じる、弱者、敗者の最後の味方となれる最大の権威は、「司法」しかない。 先進国の市民達が自主性、自立性を維持できるのは、そのような「担保」をしっかりととっているからなのではないか。 そして、司法の独立を維持するためには、市民参加による判決のばらつき、不公平というデメリットがあっても、「あえてそれを受け入れる」必要性を彼らは認めているのではないか。 
 つまり日本人の感覚のように、「民意を反映すれば、正しい裁判が行われる、あるいはそう期待する」 と考えることとは、隔世の感があると思うのだ。

 実際NHKのスタジオにいて感じたことだが、素人6名を交えた多数決で、死刑が言い渡せてしまうということの異常性に対しても、市民保護の名目で裁判を密室化しようとすることに対しての危機意識も、日本人の多くは強く感じていないように思う。 これでは、参審制が導入されても、本当に司法を市民の味方に付けることは難しいだろうし、施行後も、日本の司法制度が退化したことに気づくことも難しいだろう。【M】