映画 『評決のとき』 から「裁判員制度」を考える

1996年アメリカ映画、『評決のとき』 について
 ミシシッピーのある町で、黒人の少女二人が、白人二人に強姦され、子供が生めない体にされてしまう。 怒りに燃えた少女の父親は、その白人二人を射殺し、止めようとした警官にも重症を負わせる。 黒人差別の激しい町での裁判は、当然被告に死刑を言い渡すと思われたのだが、有能な弁護士が、全て白人の陪審員に対し、さまざまなロジックを駆使して、無罪を勝ち取るというストーリー。

アメリカでは話題になった映画だが、日本での評判は良くなっかたということだ。 当然といえば当然で、我々の感覚から考えれば、多少の情状の余地があったとしても、いくらなんでも無罪であるはずがない。
 しかし、だからといって、この映画を簡単に切り捨てることはできないと思う。 なぜ陪審員は、全員一致で、「無罪」評決が出せたのだろうか? 有罪の評決の上で、裁判官に情状を求めるのではなく、無罪が確定してしまう「無罪評決」なのだ。
 
 私は、この映画の背景に、「宗教性」を視る。 つまり彼ら陪審員達は、けして無罪を確信したわけではないと思う。 彼らは答えを先送りしたに過ぎず、その先に見ているのは、「最後の審判」なのではないか。 キリスト教を背景にした彼らは、人知の及ばない問題に対しては、その先に踏み込んだ判断を保留することが可能なのだ。 

 ニホンジン社会には宗教がない。あるいは、責任転嫁のできる超越者がいなくなってしまった。 だから、たった6名の素人裁判員が、多数決によって一人の人間を、「死刑」にできてしまうシステムの、「本当の恐ろしさ」を、われわれはイメージすることができない。【M】