─『いのちの初夜』 ねじれた差別問題

ccg2008-10-06

先日、子供の通う小学校で、ハンセン病患者から話を聞くという授業があったらしい。ここ東村山には古くから、ハンセン病患者隔離施設の[全生園]があり、こういった機会が多いということだ。たぶん、差別について語ったのだろうが、しかし一般論的な、ステレオタイプな内容だったのではないかと思う。つまりひどい差別に苦しむ人生を送らざるを得なかったと。小学生相手なのでしかたがないかもしれないが、しかし日本社会の中での差別問題は、それほど単純なものではない。

 例えば、ハンセン病文学の名作といわれる、北条民雄の『いのちの初夜』を読むと、不思議な感覚に襲われる。この自伝的小説は、1936年に書かれたものだが、われわれ現代人がイメージしているような外圧的な悲惨な差別場面はほとんどない。それどころか、強制隔離であること、つまり外へ出ることが許されないことと、当時は不治の病であり、しかも身体を醜く犯してしまう病であったことの不幸を除けば、隔離施設内部は、それなりに暖かい雰囲気に包まれているのだ。たとえば、ナチスが合法的に障害者を抹殺したような理不尽さや、欧米での悲惨な人種差別のような悲惨さはまったく感じられない。

 問題は、このような事実と、患者に対する強制隔離法の廃止が欧米諸国に比べて半世紀近くも遅れたこととの、─矛盾─のなかにある。 誤解を恐れずに言えば、われわれ健常者は、彼らを「差別」したとは思っていないのだ。隔離し、区別することは、われわれ日本民族にとっては、人権侵害とはならないのであって、逆にそれは、「保護」的な概念の対象となるのだ。
 このねじれは、例えば、「部落差別」に通じるものでもある。この不思議な差別問題は、彼らにスケープゴードになってもらう変わりに、過剰な「保護政策」を布いていると考える方が自然だ。(部落民に反感を買うと、やっかいなことになるというのは、後から発生してきた問題だ)

 日本の差別問題は、歴史の教科書に書いてあるような、一方通行的な、ステレオタイプでは語れない複雑な面を持っている。当然そのような表面化しにくい「差別」は、現代にいたっても進行し、逆に見えない所で増加していると考えた方がいい。【M】