靖国神社と「カタルシス」

ccg2008-08-15

先日読んだ対談本に、面白い事が書いてあった。ミッドウェイ海戦のあ と、天皇東条英機に、「ミッドウェイでは大変だったそうだね」と尋 ねたところ、東条は、言っている意味が解らず、あとからその大敗の内容を聞いて驚いたというのだ。 海軍の台湾沖航空戦の大嘘の話も凄いがこの天皇と東条の話は、歴史学的というよりも、文化人類学的にそ の民族心理を探求しなければならなくなるような凄い話だ。 つまり、日 本人だけで300万人も死んでしまうような戦争に対して、なぜそ こまで「真剣でなく」いられるのか? ということだ。

第二次世界大戦 の戦史には、こういった訳の分からない話がいっぱいある。人類の七不思議のひとつ、「何故、先進国JAPANはあんな戦い方になってし まったのか?」 これはまさに子孫に伝えるべき、文化人類学的問題なの だ。

 近代社会の中に潜む「後進性(前近代性)」。 これはどこの先進国に もあることだが、この二つをどのように折り合いを付けゆくのか? じ つはこの問題はものすごく大きい。 「ハレ」と「ケ」という場合の、 「ハレ」の場は、ほとんど、後進性に属する。 ある意味民族発揚の場 で、オリンピックやワールドカップ、地元の神社のお祭りなどだが、ニ ホンはこれを戦争の場でやってしまったような感がある。 ただ、戦争 に勝つためには「民族発揚」は絶対必要で、大事な事は、いかにうまく 指導者がその手綱を取るか、ということ。 しかし東条はじめニホンの 指導部はまったくこれができていなかったために、熱狂する祭りのよう な無法状態に陥ってしまったのだ。 (よく、縦割り官僚機構の弊害で、 政府、陸、海の意思の疎通がうまくとれなかったことが原因というが、 そんなことはただの現象に過ぎず、問題の根はもっと深いところにある)

 何故、そうなってしまったのか? これが、20世紀に入った、 しかも先進国日本で起こったことだと考える時、まさにこれは、文化人 類学的に探求しておかないといけないことなのではないかと思う訳だ。【M】


 「祭りの後」、靖国は、そのカタルシスの成した犠牲者を供養するために存在している。