『松林図屏風』の罠

ccg2008-07-28

絵画の世界では、西洋画には奥行きが描かれているが、東洋の絵画には描かれていない、とよく言われます。しかし添付した、長谷川等伯の 『松林図屏風』 には、みごとな奥行きが描かれていますし、多くの水墨画にも、奥行きは描かれています。主にその技法を、空気遠近法と言いますが、しかし、それは西洋画に観られるような、「奥行き」とは区別されてきました。

 なぜ、そういうことが云われるかというと、そこにある決定的な違いは、その画面のなかに、描いている人の、「視点」があるかどうか、ということです。 つまり、西洋画的な奥行きは、具体的な「距離」として必ず、描いている人の視点から始まっているということです。 そして、東洋的絵画の奥行きには、その視点の場所が不明なのです。 西洋絵画では、描かれているモチーフが、風景であっても、その風景を解釈し描いている「主体」が、園絵画の中に、視点として存在しているのに対して、東洋絵画では、「主体」は、風景全体のなかに埋没し、例えば、『松林図屏風』 は、そこは具体的な松林ではなく、頭の中にイメージされた、バーチャルで、ファンタジックな精神世界なのです。

 前回の投稿に繋げて言えば、ファンタジックな世界は、ロマンティックな美しさに隠された、現実世界を隠蔽するか、歪ませるという悪弊があります。 そして悪いことに、東洋的な、「主体」 の埋没は、モダン社会には必須の、「責任」 をも同時に隠蔽してしまうのです。 

 ずっとこのブログに書いていることですが、近代社会というモダンな部分と、それ以前の、ロマンティックなプレモダンな部分をうまく使い分けることが出来ないニホンでは、現実世界の中に、ファンタジーが突然、顔をだします。 極端な場合はそれが戦争の引き金になったりもしました。
 溺れそうになるファンタジー世界を、常に相対化して診るという、強さが、近代社会を生き抜く上では必須なのだということを認識する必要がわれわれにはあります。【M】

追伸:今、上野の国立博物館で 『松林図屏風』 を観ることができます。
追追伸: 数日前に作品の入れ替えがあり、『松林図屏風』は観られないようです。すみません。