強迫観念の造る「歴史」

ccg2008-07-17

 敵の姿が見えない。それだけでなく、そこに敵がいるかどうかも判らない。 しかたなく仮想敵をイメージするしかないのだが、いつのまに か、仮想敵は仮想空間のなかに形造られ現実味を帯びてくる。しかしその仮想敵は、その存在理由を見いだすことが不可能なので、多くの 場合、使い古されたイデオロギーを仮想敵とする。 例えば、宗教、左 翼、右翼、国家、資本家、あるいは犯罪者。
 しかし、石川啄木の珠玉のエッセイ、『時代閉塞の状況』 を読むと、仮想敵の捏造は、すでに明治の時代から行われていたことが分かる。自然主義は国家を仮想敵とし、国家は、自然主義を仮想敵とした。 両者は互いを敵と仮定することによって、あたかも「主体的」であるかのようにふるまうことができたのだ。
 しかし問題は、「仮想」が、信じることによって、現実味を帯びてしまうことで、結果、大逆事件、2.26事件などのテロが行われることになる。 冷静に考えればわかることだが、殺害まで及ばなければならないほどの対立は本当にあったのだろうか? ささいな思想の差から仲間を惨殺してしまった連合赤軍の心理は?、さらに飛躍すれば、少し我慢すればよかったアメリカに対して、膨大な犠牲が予測できた、太平洋戦争に突き進む必要が本当にあったのだろうか?
 特殊な近代化を果たした日本の特殊な「強迫観念」は、それを精神の中に留めることができず、悲劇の歴史として露出させてしまう可能性が、「常に」ある。 【M】