雨宮処凛のワーキングプア闘争

ccg2007-09-16

先日、雨宮処凛さんの話を聞く機会があった。 去年、このブログにも取り上げたが、ワーキングプア問題の活動家として活躍する彼女は、かつてイラクで反米の歌を歌って、今は無きサダムの息子と親交をもったり、日本でも右翼団体に入って、右翼系バンドを組んだりしていたこともある。
 ネットウヨ、つまり、自己のアイディンティティーを、民族主義に見出すことしか出来なかった、にわか右翼の若者達が、多くの場合、「ニート」 と重なることは当然としても、面白いのは、ニホンでは、権力者と、「ニート」 との思考が重なっているところだ。
  ひと昔前なら、それはイデオロギー闘争という形を採っていたはずだし、現代であれば保革が入れ替わってもおかしくないのだが、今の「ニート」 達は、進んで、「社会の底辺を構築するのでもいい」、というような感性を持っているのだ。 そしてそのかわり、「ニホンジンであることの共通感覚を味あわせてほしい」 というささやかな望みだけを持って生きている。

 「ワーキングプア」「ニート」 についての著書が書店の平台を賑わしているが、そのどれを読んでも、見落としていると思うのは、格差社会の線引き、つまり勝ち組と負け組みの違いが、欧米のように、民族、宗教の差とリンクしておらず、ニホンではいつ、誰が、ワーキングプア状態に陥ってもおかしくないということを、普通に前提としていることだ。 
 差別がベースとなっている格差であれば、政治、社会システムと戦うことで何らかの改善を期待することは可能だが、少し考えればわかると思うのだが、本来なら、 「日本では、ニートにとっての本当の敵は誰なのか?」 ということから考えなければならないはずなのだ。 それを考えないから、民族主義と「ニート」 の気持ち悪い癒着が生れる。

 本当の敵は、遠くの権力にあるのではなく、実は目の前に居たりするのではないか。 合理主義の都合のいいところだけを持ってきて、競争社会などといってみたところで、ニホンの企業のほとんどは、ろくに経営努力もせず、若手社員やパートからピンはねをすることだけで、なんとかトントン経営をしているというのが本当のところだ。 みんなで話し合うでもなく、賃上げ闘争もなく、経営側を突き上げるでもなく、 ただグローバリゼーションというロジックを持ってきて、 社会構造の問題だとか、政治が悪いと言ってみたところで何も変わらないだろう。

 雨宮さんたちの活動もあって、最近、派遣会社を相手取った訴訟もようやく行われるようになったようだが、このような身近な、というか直接的な闘争の方が実は、ニホンの社会基盤を変化させる可能性があると思う。
 例えば、国家の派遣法が間違っているのではなく、都合よく運用させてしまう社会心理の側の方に問題があると考えるべきで、それは派遣法自体と戦うよりは、個別に運用する会社と個別に戦った方が、成果が大きいし、その方が、派遣法自体を問題化することの近道なのだ。【M】


 脈絡の無い文章でした(汗)