必読! 植松三十里著 『黍の花ゆれる』講談社

 ふだん、あまり小説を読むほうではないが、久々に、小説を「楽」しむことができた。 植松三十里著 『黍(きび)の花ゆれる』 は、西郷隆盛の半生を、奄美流刑になった3年間だけ、「島妻」 となった女、愛加那(あいかな)の眼を通して描いた、美しい歴史小説だ。

  心中とも受け取れるような、入水自殺からの生還、という恥辱から立ち直ることのできない西郷は、流刑地奄美で奇行を繰り返すのだが、しかし、慰みのため「島妻」となった愛加那の純粋さに、次第に心引かれるようになる。 それまで、近代化こそが、日本という国を救う道であると信じてきた西郷が、プレモダンな奄美の文化の中で、天真爛漫に生きる、愛加那の姿を通して次第に人としての、「あるべき姿」を、見つめなおしてゆくのだ。
 そして西郷は3年の流刑の間、この島で愛加那との間に、一男一女を儲け、土地を購入し、家まで建ててしまうのだが、そのことは、西郷にとっての奄美が、すでに単なる一過性の土地ではないことを意味している。 西郷は奄美の地で、愛加那をとおして、近代化によって失われてしまう、人間にとって何か重要なものを発見したのではないだろうか。 多少うがった見かたをすれば、晩年の西郷の、「謎」に包まれた、突然の反近代化闘争の意味が、ここに少し垣間見られるような気がしてくるのだ。

 しかし、この小説が、幕末維新の動乱期の英雄をモチーフとしていながら、「美しい」と感じられるのは、そして小説として、「楽しむ」ことができるのは、ストーリーの面白さもさることながら、この小説が、常に奄美から一歩も出ることの無かった、愛加那の心象を通して描かれているからだろう。 どのような出来事も、それが美しい島を背景として描かれていることによって、遠い国の物語のようにオブラートに包まれる。
 しかし、本来人間の感性は、そのようにしか実感することができないもので、いかにリアルに思考したつもりでも、その問題と直に触れることはできないのだ。 結果的に、この小説は、小説というメディアでなければ表現できない「心象」を、─奄美と愛加那という幻想的な視線─から、表現することによって、単なる史実を超える、リアルさを表現し得ているのではないかと思う。【M】