命を守る「基準値」

ccg2007-07-17

最近、耐震偽装問題で、国交省が実際には、0.3しかなかった強度を、0.5以上あると偽って公表していたという事件が発覚しました。 政府は揉消しに必死になっているようですが、現在でも、安心だと思って0.3の強度しかないマンションに住んでいるひとがたくさんいるということです。 幸い最近頻発する巨大地震は首都圏を避けて発生しているようなので、生き延びていられるようですが、事実を知ったらとてもじゃないけど住んではいられないでしょう。

 しかし、よく解らないのは、基準値「1」というのがどういう基準なのかということです。 当時の国交省の発表では、0.7あればほぼ大丈夫ということだったと思いますが、どうして、「0.7」を、「1」としないのか? つまり、「1を下回った物件は全てだめ!」、と決めた方が遥かに便利で解りやすいと思います。 これとよく似た例が、スピード違反です。 高速道路でも、一般道でも、最高速度制限プラス10キロまではOKなのですが、例えば高速道を時速120キロで走っていて捕まった場合、速度オーバーは、10キロではなく、20キロになってしまいます。だったら最初から、100キロを超えたらだめとするか、制限速度を110キロにしてくれと言いたくなります。

 高級官僚達の自己保身をここから読むことは簡単なのですが、問題なのは、スピード違反はともかく、耐震強度基準である、「1」のハードルが高すぎることの「弊害」を何故イメージできないのかということです。 「0.7でもいいか」、と思う余地を残してしまえば、それが、「0.5」になってしまうことは充分考えられます。 人の命に関わる数字であれば、絶対に、本当に必要である強度基準を「1」として、それを厳守させなければならないはずです。 行政責任者達は、自分に責任が及ばないようにあえてハードルを高くして、それを守ることが難しいことを知りつつ、「守らない方が悪い」、という態度をとるのです。これは明らかに「悪質な責任逃れ」でしょう。

 日本では、「人命」より、「たてまえ」の方が重視される。 これは古くからの日本社会の特徴で、自分や自分の家族を守ろうと思ったら全てを疑ってかかる必要があります。 中越沖地震後の柏崎原発だって本当に放射能が漏れていないのか疑わしいし、狂牛肉だって入っているかもしれない。
 要するに現代と言う時代は、自分を守ることができるのは、自分の「感性」しかないという、厳しいサバイバルの時代なのです。【M】