『ウルトラマンの日』 


今日はなぜか、『ウルトラマンの日』 らしい。1966年の今日、 ウルトラマンの放映が始まった。 自分は、「ウルトラマン」から「ウルトラセブン」までは必死になって観ていた記憶があるが、最近まで続いていた「ウルトラマン」シリーズと違うところは、まあ当然といえば当然なのだが、まだ、ウルトラマン家系図も、近親関係図もなく、全くの─[単独者]─だったところだ。 早手のように現れて早手のように去ってゆく月光仮面はまだ、日本のどこかの誰かで、何か理由があるのだろうと想定されたはずだが、ウルトラマンがいったいどこの誰で、なんで地球を、というかなんで日本を救ってくれるのかまったく解らないし、ウルトラマンという名前そのものも、固有名ではなく、「すごい男」としか、認識しようがなかったのだ。つまり全てが「謎」に包まれていた。 自分は、SF物はほとんど知らないが、はたして過去、地球以外の星から、地球征服のためではなく、地球を救うために遥か宇宙からやってくるヒーローの、しかも一言もしゃべらずすぐ帰ってしまうなんていう不可解な物語はあっただろうか。


 「ウルトラマン」に内在する、メタファーやシンボルについての文化論は過去いくつも書かれているだろうから、繰り返さないが、しかし、どうしてあのような不思議な物語が、日本人の心理に強い影響を与えたのかというのは、興味の尽きないところだ。
 法華経の中に、「従地涌出品」というのがある。 世の中が乱れた時に救済者「菩薩」 が湧き出てくる (学会員はみんなその菩薩でありたいと思っているみたい) という話で、かの日蓮上人は、自分がそれだと確信していたようだが、ウルトラマンは、そのような地べたを這うような等身大のイメージではなく、阿弥陀如来のように天から降臨してきて、なにも言わずに助けてくれる、「絶対者」のような印象がある。 つまり、ウルトラマンの救済というのは、自分もいっしょに頑張らなければいけないとイメージさせる 「菩薩」信仰、ではなく、手を合わせて拝むだけで救われるという 「阿弥陀如来」信仰に近く、要するにそれは、楽して幸せになりたいという─他力本願─思想に極めて近いのだ。


 短絡的に結論付ければ、「ウルトラマン」の存在は、中世の古きから庶民のなかに根強くある─他力思想─の延長線上にあって、常にあの世に憧れつつ、「所詮この世は浮き世だと逃げを打ちたい日本人の心理」を象徴していると、言えないこともないのではないかと思ったりもできる存在なのだ。 (付け加えるなら、日本の中世が貧しかったから「他力思想」が流行したのではなくて、それは貧富に関係なく、 日本人のなかにずっとある思想、というか性癖だと思った方がいいと思う)【M】