ハローワークの日(職安記念日)

 今日、4月17日は、「職安記念日」らしい。ネットによれば、「1947年のこの日、それまでの職業紹介所が公共職業安定所」に改称したことによる」ということだ。昔、二十数年前、自分が職安に通っていたころの、暗く、後ろめたい雰囲気と違って、現在の「ハローワーク」では、例えば、薄汚れたファイルの求人票をめくるのではなく、パソコン画面に向かって求人検索をする。そのためか、明るく広いオフィスでパソコンに向かう姿からは、当事者達の深刻さは、内に秘められたまま伝わってこない。


 ここ1ヶ月ほどの間、地方の国立大学の4年生になった甥っ子が、就職活動のために頻繁に我が家へ泊まりにくる。聞けば、ほぼ4月の間に内定が出るらしいのだが、そうだとすると、それから来年の卒業までは、残りの単位を取ることと、アリバイ工作的に卒論を書くことだけの学生生活になる。自分は特殊な職業なので、就職活動がどういうものか知らないが、どうして企業は、4年間の学業成績と卒論を判断材料とせずに内定を出せてしまうのだろう。人事担当者たちはそれほど人を見る目に自信があるのだろうか。
 甥っ子からいろんな会社の採用試験の内容を聞いていると、おそらくはリクルートあたりがマニュアル化した採用試験をそのまんまやっているのだろうが、「そんなことしたって解らねえだろう」と言いたくなるようなことばかりだ。偉そうな言い方になってしまうが、小さなデザイン会社で、若い社員を何人か雇った経験からいえば、何か真剣に取り組んだ「結果」を見なければ、使えるか、使えないかは絶対に解らない。たぶん、一般の学生では、卒論の完成度を見ることによってしか、その人間のスキルを知ることは不可能だ。真剣に就職活動をしている甥っ子には悪いが、いくつかの大手企業の内定をもらっている彼のエントリーシート(要するに履歴書)を見せてもらっても、どうしてこれが、書類審査をクリアしたのか、他の学生より秀でていると判断できるのかが、よく解らない。どう考えても、「とりあえず国立大学の学生だから」という理由しか浮かんでこない。


 優秀な学生を確保したいという気持ちは解るが、日本の大手企業は、採用の決定を1年先送りして、しっかりとした卒論を書かなければならない理由を学生達に与えるべきだ。大手企業、もちろん公務員もそうだが、学生達に、出身校ではなく、どれだけ真面目に学生生活を送ったかと、どのような成果が上がったかをちゃんと見てあげる義務があるのではないか。その方が、勉強に力が入るし、企業にとっても有益なはずだろう。
 自分の経験からも言えるが、断片的な考えで終わるのではなく、それをちゃんと論文に纏めてみるということは物凄く重要なことだ。絶対に物の見方が変わるし、考えが数段深まるはずだ。その経験を与えず、「採用」という人間の価値判断をくだしてしまうことは、社会にとって大きな損失であり、そもそも不公平だ。
 とりあえず、良い大学を出た学生を早く確保しようという風潮は、やはり正すべきだ。大学に入学した時の力ではなく、4年間勉強した「結果」を平等に審査するという手本を、大手企業から示さなければならないと思う。【M】