●集団自決の「強要」─という矛盾

 
 終戦間近の最前戦で、日本軍が、一般住民に対して集団自殺を強要したかどうかという問題で、事実が曖昧だとして、高校生の「日本史」の教科書の記述から、文科省の指導によって、「強要した」という一文が消える。
 この問題の難しいところは、一般的にイメージするように、「言うことを聞かなければければ殺されると思った」という理由が、理由として成立しないところにある。 本人にとって、「自ら死ぬ方が良いか、殺される方が良いか」、という選択は、事後的に他人がどうこう言える問題ではない。平和な今の世の中では、自分で死ぬより、殺してくれた方が楽なような気がするし、もし自分が当事者だったら、竹槍でも何でも持って突撃して死んだ方がましだと思うかもしれない。
 テレビのニュースを観ていたら、強要された集団自決から生き延びたという老人が、インタビューに答えて、「強要という事実が曖昧なものにされ、史実がゆがんでしまう」と言っていた。老人の年齢から考えると、まだ少年であったと思うが、そのように若い人であれば、自分は自殺を「強要」されたと思うかもしれない。しかし、実際のその場の雰囲気は、その老人が記憶しているようなものだったのだろうか? 
 自分には全く想像の範囲を超えることはできないが、そこには日本人独特の死生観が働いて、その場に居るもの全員が「死」を受け入れる準備をしていたのではないかという気がするのだ。 なぜなら、現実的に考えれば、どうせ死ぬのだったら、いままで経験したこともない、自分や自分の家族の胸をナイフで刺すというリアルな恐怖を味わうよりは、洞窟から飛び出して後ろから撃たれるか刺されるかして死んだ方マシなのではないかと思からだ。


 問題は、集団自殺が、軍の強要によるものか、自発的な絶望によるものかではなく、「日本人は、どうしてそうなる前に、自発的にそうならないための行動がとれないのか?」 ということなのではないか。 そういう意味では、教科書の記述の問題では、そういう事実があったということさえ伝えれば、あえて強要という言葉を使う必要はないし、逆に考えれば、軍部だけを悪者にすることは、上記のような日本人の、精神的な問題点を隠蔽してしまうことにもなりかねず、かえって史実を歪めてしまうかもしれない。 
 そういえば、いぜんこのブログで、硫黄島での栗林中将の作戦を批判したら、ものすごい反論が返ってきたが、それも同じで、日本人は、自分ももちろん含めてだが、ある事態に対した時、その前後を無視して、その「事態」だけを判断して「良し悪し」を決めてしまう性癖がある。つまり本来、切断して考えることが出来ないはずの「歴史」をばらばらにしてしまうのだ。 硫黄島作戦だけを考えれば、確かに見事な戦い方だったが、本当に考えなければならないのは、「何故、ああいう状況に日本がなってしまったのか」 ということのはずで、それなくして硫黄島を語ると、ただ、「一人のヒーローが居た」という話しで終わってしまうのだ。
 
 歴史教科書に話しを戻せば、もう高校生なのだから、「集団自決があった」という事実だけではなく、どうしてそうなったのかという、心理面での勉強も始めた方がいいのではないか。 「自殺の強要」それ自体の言葉に矛盾が内在していることを、もっと不思議だと思わなければいけばい。
【M】