教育再生委員会提言ー「教師」というスケープゴード

少し前に「リリー・フランキー著『東京タワー』の主人公 の“母”は、スケープゴードである」という書き込みをしたが、どうやら小学校や中学校の先生達も同じ状況にあるようだ。世の母が家族のすべての責任と忍耐とを押し付けられることの対価物として、有り難迷惑な「聖」性までも引き受けなければならないことと同様に学校の先生達も、日本の教育問題の歪みと皺寄せを一身に受け止めなければならない。

今朝のニュースを見ていて驚いたのは、日本は国のGDPに占める教育予算の割合が、先進OECD諸国のなかで最低だそうだ。この信じたくない数字を見る限り、アベソーリがいうように「教育は國 の根幹」ーではないことが解る。例えば、先生一人に生徒が 40人というのが、他の先進国に比べて異常に多いというのは、おそらく戦後すぐから言われたことだろうし、教室の数が足りないというのは、未だに続いていて、家の長男は、理科室をつぶした教室で勉強している。つまり、バブル時代を通過したにも関わらず、常に教育には予算を使わないというポリシーを日本は持ち続けてきた。
 今回の「提言」の問題は、というかだめなのは、あいかわらず、先生の聖職者的努力をベースにしているところにある。つまり、予算を必要とする教師の数も含めた学校のハード面には手を付けることなく、新・教育基本法というような理念を元に過酷な労働条件のなかで、例えば、授業時間数をいまより10パーセント増やすというような、 まったく現実に即さない提言がなされている。 そのような無理難題を 「可能である」と思わせているのが、「教師は聖職である」という、都 合のいい共同幻想であり、つまりそれは、リリー・フランキーのような、甘えの構造に浸る未成熟な日本男児の「母はすべてを許してくれる聖母」であるという身勝手な心理に通底するものであり、それは結果 的に、教育問題のすべての皺寄せを「聖職」を押し付けられた教師に負担させる構造になっている。
 そして、さらにそれが悲惨なのは、「聖職」であるがゆえにあらゆる物理的バックアップは不要であるという社会心理的なロジックを成立させてしまうことだ(事実、教師をバックアップするような具体的提言はな い)。そのことは、例えば『東京タワー』に象徴されるように日本人にとっての「母」が、常に最後まで報われることがないことで、より「美しい物語」として成立してしまっていることで証明されるし、極端 例を挙げれば、以前にも書いたが、非差別者がなぜか「聖」性を付与 されるという歴史的事実にもあてはまる部分がある。

 日本社会には、幸か不幸かあからさまな差別対象がいない。普通なら、フラストレーションのはけ口となる差別対象は、他民族や異教徒な どの「他者」に、つまり外に向かうものなのだが、日本では、起源の不明な部落差別に象徴されるように、そのような差別は内側に向いてしまう。そしてそれが内面的なスケープゴードという形になっているように 感じられるのだ。  「母」や「教師」が、そのような差別対象であると言えば、かなりの違和感があるかもしれないが、現実に日本の「母」が置かれている環境や、「教師」が置かれている環境を見つめ直せば、多くの問題の皺寄せを、同じように対価物の「聖性」という、迷惑なイメージといっしょに押し付けているように感じられるように思う。そしてその問題の根が深いと感じるのは、それが悪意からではなく、ごく自然に当然のように遂行されていることだ。【M】