“パーフェクト・マザー”

 21日の朝日新聞の特集記事 「2006年の終わりに」 が、少子化の原因について、面白いことを書いていた。 今の社会の中では、「母」であることが、辛い、と言うのだ。 確かに、考えてみれば、「父」の不在が語れるようになって久しいが、その裏では「母」への重圧が増している。しかし、その当然の成り行きが問題として語られることはほとんどないのではないか。 日本が母性社会だからなのか、「甘え」の構造の中に浸っているからなのか解らないが、われわれ、というか、男たちは、最後まで支えてくれるのは、「母」であると、どこかでかってに思い込んでいるのではないか。 そして、それが自然なことのように思っていないだろうか。

 「母」であることが辛いのは、社会がそれを要求するからだけではなく、「母」が自らを、その期待を受け止めなければならない存在だと思っているからだと思うが、そうであれば、女性が「母」になることをためらう気持ちは、理解されなければならないだろう。 しかし、普遍的な問題にも思えるこのことが、今、問題なのは、「母」が、現在唯一の「聖職」の役割までこなさなければならなくなっていることだ。

 記事では、安倍ソーリの「美しい国へ」の中の少子化問題に触れた部分を嘲笑し批判しているが、確かに─「わたしたちは若い人達に、家族のすばらしさを教えてゆく必要がある。家族とはいいものだ、だから子供がほしい、と思わなければなかなかつくる気にはならないだろう」─という半面だけの認識には、その「美しい家族」のためにつくさなければならない、母の「犠牲」性が、まったく考慮されていない。 そこでは、まさに聖母のように、自己を犠牲にして、家族の要求をすべて、ある時には暴力でさえも受け止めることが、当然のように強いられる。 もちろん、教師や政治家のように早々と聖職であることを放棄することは許されないのだ。

 社会論では、社会が進化すればするほど、野蛮な状態を作り出してしまうという矛盾が語られるが、一見平和な社会に見えても、習慣的に、どこか一箇所に犠牲を集中させることを、悪意なく「自然」だと感じてしまう社会も、一種の「野蛮」性を秘めた社会だということを、われわれは認識したほうがいい。 「甘え」ることが許されなくなりつつある社会では、「母」への期待は増殖するばかりだろう、そんなときに、「家族はいいものだ」 という逃げ道しか持てない社会では、「母」の減少には歯止めがかからないと思う。【M】