「部落差別」という幻想

少し前に奈良の市役所の職員が、自らの出生(部落出身者)を利用して詐欺や恐喝を行っていた事件がありました。そういうことは部落問題の影の部分として以前からあることは知っていたのですが、どうしても腑に落ちなかったのが、なぜ部落開放同盟に対して行政も、企業も弱腰なのかということ。部落民を怒らせると厄介なことになるというのは解るのですが、ではなぜ、彼らがそのような組織になったのか。

実は自分も参加している、ある討論サイトがあって、最近そこで部落問題の議論が始まったのですが、今まで特に興味をもっていなかったので、何を書こうかと考えていた時に、一つの疑問が浮かびました。 それは、「どうして、部落差別問題は、その起源がはっきりしないのだろうか」 ということです。 よく考えてみるとこれはかなり特殊なことで、普通は、ここまで大きな差別問題は、移民であったり、先住民であったり、異教徒であったりすることで起こることで、根拠ははっきりしている。しかしそれに比べ、部落差別の起源は、諸説入り乱れ、研究してもはっきりしたことが判らないのです。明確な理由も無く、500年以上に亘って差別され続けてきたというのはどう考えても解らない。
もちろん、その起源についてはいろいろな研究が成されているのですが、私のには、そこから見えてくる具体的な事例からでは、おそらくこの問題の本質には迫れないのではないかと思えてなりません。さらに言えば、そのような研究は「理由」を求めたがる社会からは歓迎されそうですが、その理由によって、本質的なことが「隠蔽」される危険性もあると思います。本当は、この問題から、解明されなければならないことは、差別の起源ではなく、「起源が解らないのはなぜか?」ということだと思います。しかしその答えは意外と簡単なのではないか。つまり、部落問題には、起源も理由も最初から無いのです。 
もちろんこれは仮説ですが、当時、日本という均質な社会が「他者」を必要とする社会に変化したのではないか、つまり、経済のダイナミズムに必要なあるいはサディズムのはけ口となるための「格差」を作ろうとしたのではないか。そしてそのための犠牲になる人達が運悪く選定され、被差別者となった。要するに、社会が「賤民」を必要としたことがそもそもの起源であって、理由は後から付けられたのではないかということです。
どうしてそう思うかというと、日本では、差別者と被差別者が特殊な関係を持っているように思えるからです。例えば、高貴な層と中間層と、被差別層が、単純な上下関係にあるのではなく、奇妙な「円形」を成しているところで、被差別層が「神」や「天皇」に非常に近い関係にあったりする。昭和天皇の棺を担いだ八瀬童子天皇の神事に現在でも深く関わっていることはよく知られているし、かつての神官はある意味賤民的な存在だったようです。
現代からは想像することしかできませんが、そこには、差別する側と被差別側との間になんらかの契約関係があったのではないか。もちろん「賤民」となった何らかのきっかけはあったのでしょうが、その代償が与えられた。それは、例えば現代でも、部落民の「地区」を指定して、そこには様々な優遇措置を施すということが行われていますが、これはあきらかな契約関係です。

■長くなりましたが、要するに最初に書いた行政や、企業の弱腰の裏には、被差別者に対してのある種の「うしろめたさ」が根強くあるのではないかということです。【M】