「浮世」思想と臓器移植

少し前に、病気の腎臓を移植していたことでパッシングを受けていた万波医師がテレビのモーニングショーに生出演してインタビューを受けていた。同時に万波医師を擁護する側と、批判的、つまり医師会側の立場に立つ二人の大学教授が出ていたのだが、万波医師は、たとえそれが癌に侵されていた腎臓でも、しっかりと処置がされたものであれば充分使えるのだから、移植は許されるべきだという立場で、それが海外で実証されていることを、サポートする大学教授がデータで紹介していた。それに対し、医師会側の立場に立つ教授は、そういうことは医師会に発表して、議論を経てからやるべきもので、そうでなければ臓器売買の問題にも繋がってしまうし、医学全体の発展にも役立たないという考えだった。

いつものことながら、議論がすれ違うのだが、問題は、事、生命倫理や医療倫理に関わる問題には、医師会にそれを判断する力がないことで、議論した上で、立法化に向けて積極的に国に働きかける勇気はないし、国も積極的に医師会に判断をさせる責任意識もない。そこで現場の医師としては置き去りにされた不憫な患者に対して、なんとかしてあげたいという気持ちから、非倫理的?な医療行為を行ってしまうということだと思う。

 しかしこの問題の本質は、アメリカでは、腎臓移植が年間で20000件ほど行われているのに、日本では、1000件にも満たないのは何故かというところにあると思う。つまり、日本では自分の死後、使える臓器を提供してもいいという、ドナー登録をしている人の数が圧倒的に少ないことだ。緊急医療の場で、本人や家族から臓器移植の意思を確認することなどできるはずもなく、移植できる健康な臓器を捜すことは現実的に不可能に近い。
 ではなぜ日本ではドナー登録者が少ないのか。それはおそらく、日本人の生命「倫理」意識、つまり道徳心の問題ではなく、死生観の問題だと思う。多分に宗教観の問題になってしまうが、キリスト教社会のように、「生きる」ことが絶対的な倫理となっていないのだ。例えば、医療倫理に指針ができないのは、医師会や国が、患者のためになにをすべきかを責任をもって判断するのではなく、「議論すること」の方に「道徳」という概念を持ち込んで、遅延を正当化しているからだ。そこでは患者の「命」の問題にリアリティーがない。
 要するに、深層心理の世界では、日本人は、この世で「生きる」ことに、絶対的な価値観を持ってはいないのだと思う。誤解を恐れずに言うならば、つまり日本でドナー登録者が少ないのは、道徳心の問題ではなく、日本人には、「生きぬく」ことがかならずしも価値のあることではないという「美」意識が根強くあるあるからだと思う。
【M】