「子」を忘れる国民

ccg2006-12-03


中国残留孤児に対して、国がどうして冷たい態度をとり続けているかというと、1959年、「未帰還者に関する特別措置法」によって、戦死者といしょに、生きていることがはっきり判っているはずの残留孤児たちの戸籍をも、抹消してしまったという経緯があるからだ。今回の裁判の国の敗訴は、1972年の日中国交回復後、具体的な帰国支援策が可能になったにもかかわらず、逆に帰国制限とも取れるような違法な行政行為を行ったということがその理由らしいが、厚労省としては、かつて自分達が、死んでもいない孤児たちを死んだことにしてしまった手前、あまり熱心に、帰国事業のイニシアティブを執ることができなかったのだろう。

 しかしここで問題なのは、行政の不作為についてというよりは、終戦からわずかな時間しか経っていないのに、なぜ早々と戦時死亡宣告に寄った、孤児達の戸籍の抹消ができてしまったのかということだ。死んだことにされてしまっては、もう二度と自分の肉親に会えなくなってしまうかもしれないのに、5000人の残留孤児に対しての数万人?の肉親達は、それを野党やマスコミも含めて、どうして黙って見ていられたのだろうか。

 しかし、不思議なのは、戸籍が抹消されてしまう少し前の1956年には、「天津協定」によって、1000人を超える、戦犯も含めた捕虜が、帰還できているわけだから、その間、終戦から10年以上経つ間に、なぜ、子供達の帰国に協力してほしいという要求ができなかったのかということだ。自分も子供を持つ身だが、その子をやむなく中国に置いてこざるを得なくなってしまったら、必死になって自らの子を取り戻そうとするに違いないと思うのだ。10人や20人というのなら、忘れ去られてしまったとしても仕方がないかもしれない。しかし、国策によって移民した同胞の子供たち5000人が大陸でまだ生きているというのに、どうして連れ帰ってあげることができなかったのか?
 

ミニコミ誌などで文章を書き始めて10年近くになるが、私にはどうしてもこの謎が解けない。引揚げ時、子を救いたいという一心から、中国人に託すことは理解できるし、その時の親の気持ちが正に断腸の思いであっただろうことは想像に難くない。しかし、その後国交が本当に途絶えてしまう10年間、ごく一握りの民間団体を除いては、肉親も国も何一つ、子供を救うための具体的な行動にでてはいないのだ。
 しかし、同じ日本人である自分が、あの時と同じ立場にいたなら、同じようにわが子を諦めてしまうのだろうか。また、自分の子との別れ際の断腸の思いを、同じように忘れてしまうのだろうか。私にはこの問題の相対化ができない限り、日本が「美しい国」だなどと思うことは、金輪際出来ないだろうと思う。【M】