─「満州引揚60周年の集い」

今日、九段会館で行われた、「満州引揚60周年の集い」に参加した。 これは(財)国際善燐協会主催の催しで、満州引揚げが始まって60周年を迎えることを記念して行われたものだ。
 行ってみると1300人収容の会場は、立ち見だけではく、別室でのモニターによる視聴を余儀なくされるほどの盛況だったのだが、そのほとんどが、70歳を超えると思われる高齢の方で、座席の間の通路や階段に肩を寄せ合って座っている姿を見ると、この人達にとっての「満州」というものがどれほど重いものだったかということが伝わってくる。

前半は、開会の挨拶、そして歴史研究者からの基調演説の後、オペラ歌手、中澤桂らの歌曲の演奏と続いたのだが、意外だったのが、「故郷」 を会場のお年寄り達と合唱したときも、満州時代に必ず歌われたという、「わたしたち」 と言う唄を合唱した時も、ハンカチで目頭を押さえるという風景がほとんどなかったことだ。 別に、そういう情景を期待していたわけではないが、考えてみれば、150万人からの移民者がいたわけで、そこではそれぞれの生活があり、そして引揚げという悲惨な思い出があり、彼らにとっては、満州が単なる、「郷愁」の場ではないということなのだろう。
 後半のパネルディスカッションでは、満州引揚者の、なかにし礼山田洋次高野悦子ら5名の著名人が、それぞれの満州体験を語ったのだが、印象的だったのは、みな一様に、「うしろめたさ」 という言葉を口にしたことだ。「うしろめたさ」という感情は、自分が生き残ったことに対しての、あるいは残留孤児という現実的な問題に対しての思いからなのだろうと思うが、会場を埋め尽くすお年寄り達も、そのような「うしろめたさ」を感じつつ生活してきたのかと思うと、胸が締めつけられる思いがした。

終戦直前、日本政府は、満州移民は帰国させず、現地で自活させることを決定する。150万人もの人に、荒廃した本国に帰ってこられても、受け入れることが出来ないと判断したためだ。しかし所詮そんなことが出来るはずはなく、結局、戦後政府はGHQからの指示により、厚生省を担当官庁として、帰国措置を開始するのだが、行き場のない引揚者の多くは、炭鉱労働者となったり、南米移民となってさらに海外での苦労を強いられることになる。また、大陸にとり残された残留孤児は、その存在さえも忘れられて、5000人とも云われる孤児達の戸籍は死亡したものとして、抹消されてしまう。終戦後わずか14年後のことだ。
 パネルディスカッションの5人のパネラーは、帰国後の激しい虐めについても語っていたが、日本人は、一度、「外部(他者)」となった者へは、徹底的に冷たい態度をとる。満州引揚者だけではなく、復員兵に対しても、シベリア抑留者に対しても、戦地の遺骨収集も、近年の問題では、北朝鮮妻ドミニカ移民、ハンセン病患者に対してなど。本来、そのような自閉的な国民性は、厳しく自己批判されなければならないと思うのだが、現在の状況はまったく逆を行っているような気がする。【M】